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廻る僕らとみなそこの石

まじないの意味

作者: 逸取 生

 二〇二七年五月三十日(日)

 雨は降りそうにないけど、何ともいえない天気だよ全く──。 

 見上げた空に太陽は見えないが、その曇り空は(まぶ)しかった。


 五月最後の日曜日、今日は久々に部活がないからダラダラ過ごしていたかったのに。

 リビングで転がっていたのが失敗だった。


鉄吾(てつご)、あんたどうせ暇なら、ちょっとお届け物お願いよ」


 玄関前のバラの鉢を持っていくようにと母が言ってきたが──。あの鉢植えはおれの胸ぐらいの高さで、結構重そうだった。


「え? やだよ、姉ちゃんに頼めば?」

 

 買ったばかりの軽があるのに、と二階から下りてきた姉の顔を見るが、今日は何だか化粧が濃い気がする。


「私これから約束があるんだ」

「ふーん、あ……そっか! 内定祝いだよね? おめでと姉ちゃん!」

 

 先週初め、たしか二社が最終だと聞いていた。


「違うけど……ただの息抜きよ」


 ──しまった──。

 

 助けを請うように母親を見るが、小さく首を振るばかり。 


「あ、お母さん、やっぱりおれ行くよ」 


 物置と化したピアノの上から財布と携帯を取って、おれはそそくさと家を出た。



 台車を引いてゆっくりと坂道を上っていく。

 抱えていこうとして鉢を持ったら、歩くたびに棘が触れて顔と腕に刺さった。仕方がないので、物置から二輪のカートを引っ張り出してきた。

 

 直線距離にして約六百メートルの坂は角度がきつく、おれ以外に上る人影も見られない。

 この坂を越えて更に行ったところに幼馴染みの家がある。走ればふだんは五分もかからない。だが荷物を引いて、かつその中身を(こぼ)さないように、茎を折らないように気を遣って上がるとなると、少し勝手が違ってくる。

 泳ぎで鍛えられているとはいえ、これはなかなかの重労働だ。


「エラ呼吸で生きてる人間には、けっこう、つらいかも……」


 坂の途中で小休止していると、前から中学生とおぼしきカップルが仲良く手を繋いでやってきた。駅前に出るのかと思ったが「妹のリレーまでには間に合うかな」という大きな声が聞こえてくる。行き先は小学校の運動会だろうか。

 今朝はドン、ドンという大きな音で目が覚めた。まあその後は当然、二度寝したのだが……。


 通り際、カップルの少女と目が合った。少女はおや、という顔をして彼氏の腕をつついた。


「ねえ、あの女の人、ちょっと男の子っぽくてすてきじゃない?」

「はあ? お前ああいう子が好きなの? ……ふーん、結構かわいいじゃんあの子。アリだな」


 二人はおれの顔をじろじろと見てから、坂道を下っていった。

 

 ──くそッ……勝手に言ってろ、もう慣れた。

 

 しかし中学生ですらイチャイチャしてるというのに。おれはたまの休みに一人きり、しかも親のお使いの途中だ。


 虚しさでいっぱいになった気持ちに気づかないふりをして、おれはまた道を上り始めた。



 ****



「──というわけ」


 バラの鉢植えを置いて、おれはだだっ広い土間の上がり(かまち)に腰を下ろした。

 幼馴染みの家に届け物をしに来たのはいいが──家にいたのは、その妹の奈緒(なお)だけだ。


「ふーんテッちゃん、まーた女の子に間違えられたんだ」

「そうだよ」

「喉仏、出てないからじゃない?」


 おれの喉を指さしてくる奈緒。

 なかなか痛いところをついてくるな。おれは自分の、他人には見えづらい喉の骨を触った。


「おれ、これでも声変わりしたんだけど」ほら、と首を上げて喉を見せた。

「うーん。でも貫兄(かんにい)ほど出てないよね」

貫二(かんじ)は声低いからなあ、もう向こう側の人間って感じ」 

「ずっと一緒に育ったのに、一体どこで差がついたんだろうね……」


 両膝に頬杖をつく奈緒は、今日は心ここにあらずといった感じだ。いつもはもっとこう、ガツーンとぶつかってくる勢いなのに。何だか調子が狂う。


「あれ、お前泣いた?」


 おれは奈緒の腫れた目を見て言った。奈緒は目を逸らして下を向く。


「──泣いた」


「何だよ、貫二と喧嘩でもしたの?」

「…………」


 適当に言ったことなのに、奈緒は眉間に皺を寄せている。


 ──まずい、図星だったか。


「あ、いやさ、上の兄ちゃん大学生になってからあんまり家に帰ってこないって貫二から聞いてたからさ」

「…………」

「いや、あのだからさ、貫二ぐらいしか喧嘩する相手っていないだろ……ってあれ? 貫二って何かきついこと言ったりするかな?」


 ツッコミは入れてくるが、相手を泣かせるようなキツいことは言わない奴だと思っていたのだが……。


「…………ううっ……うっ…………」


 ──あちゃー、駄目だあ。

 

 おれの掛ける言葉は全て裏目に出てしまったようだ。奈緒の目はみるみるうちに潤み始めた。表面張力で踏ん張ってるような感じだ。


「あーあー、ごめんごめん! おれが悪かった! 泣くな、もう泣くなよ!」

「うう……うぐっ……うっ……えぐっ、うぐっ…………」

「ごめん、ほんとごめんってば! あ、そうだ奈緒、今度なんか甘い物おごってやるよ」

「…………ほんとに?」


 奈緒の泣き顔が、一瞬で真顔に戻った。


「あれ? あ、ああ……」

「じゃあキルフィーのタルトがいい」

「え」

「キルフィーの、木いちごとホワイトチョコのタルトが食べたい。マンゴーのタルトも。あとやっぱり季節の果物タルト!」

「まじかよ」

 

 あの店は、色とりどりのタルトに目移りして数を頼むことになるが……そうなると当然、支払う金額は高くなる、と姉が言っていた。しかも二人分だ。

 おれは自分の財布の中身を思い出した。もらったばかりの今月の小遣いは、まだ手を付けていなかったはずだ。

 

 ──まあ使う分からよけておけば、何とかなるか。

 

「だってテッちゃん、おごってくれるんでしょ」

「あ、まあ、そう言ったけどさ」

「じゃあ待ってて! 私準備してくるから!」

「えっこれから? っておい、お前この家の留守番は?」

 

 奥に引っ込んでいく奈緒に、おれは大声で呼びかけた。

 家が広すぎるから、大きな声を出さないと向こうには届かない。


「だいじょうぶー! もうあと五分ぐらいで、お母さん達が戻ってくると思うから!」

 

 遠くの方から、奈緒の弾んだ声が聞こえてきた。



 ****



「──なるほど、ペットボトル爆弾ねえ」

「うん、ドライアイスをペットボトルに詰め込んで蓋しちゃってバーン! で、貫兄にマジギレされた」

「ああまあ、そりゃあお前が悪いよ」

 

 おれと奈緒は下り坂を歩いて、駅方面に向かっていた。

 先ほどの上り坂の苦労がウソみたいだ。見晴らしも良く、ここからだとこれから向かう駅前のビルやマンション、それに一駅向こう側にある地元企業が一望できる。晴れた日ならもっと遠くの景色も見えるだろう。 

 本当は電車に一駅乗った方が早い。だが奈緒は健康のためにと徒歩を選択した。中学三年生の奈緒は、部活に受験勉強にといろいろ忙しいはずだ。それでも歩くと言ってるのだから、よっぽどストレスが溜まっているのかもしれない。


「ねえねえ、さっき持ってきたバラってどんな種類?」


 いきなり話が飛んだ。まあ慣れてるからいいけど。

 小さく息を吐いて、横の奈緒に答えた。


「あの鉢? うちの親から、おばさんにあげてって言われて持ってっただけだから、おれもよくわかんないんだけど……」

「そっかあ、でもお母さんすっごく喜んでた。テッちゃんって、もっと気が利かないと思ってたけど。ありがとね! いつもこうだといいのにね」


 余計な一言が出てきたということは、少しは元気になってきたということだろう。


「おばさんのためだからな、奈緒のためじゃねえから──あそうだ、青だ」

「何が?」

「だから持ってったバラだよ。ちょっと前に青いのが咲いてた」

「青いバラかあ、どれぐらい青いの?」


 おれは咲いていたバラの色を思い出そうとした。たしか──。


「真っ青……だったかな」


 そう、コバルトブルーのバラだ──深い海の色みたいな青。

 奈緒は「青か……」と呟いてから、何かを考えるような顔をして、おれの方を見上げてきた。

 まだ辛うじて、おれの方が背が高い。だが奈緒の兄二人の背丈を考えると、抜かされるのも時間の問題だろう。

 

「テッちゃんあのね、青いバラってさ、昔は『不可能なこと』をあらわす言葉だったんだって」

「それ、おれも聞いた。貫二だろ」

「そう、何か本で出てきたっぽい。二十年以上前に遺伝子操作で作られて、そのときは薄紫色だったらしいんだけど……今は真っ青かあ」

「科学の進歩ってすげえな、不可能を覆したんだから。きっともう人間だって何だって科学で作れちゃうだろうな」


 おれの父がいる会社も、たしかそういう遺伝子の研究をしているって聞いたことがある。

 何でも、社員を実験体にして化け物にするとか、新人は所有してる廃坑に突き落としてサバイバルをさせるとか、機密情報を漏洩しようとした元社員が東南アジアの海に浮かんでるとか……どこまで盛られているのかわからないけど、そんな都市伝説なら腐るほどあるようだ。

 社員の数が国内外合わせて十万人だとか父親は言ってたから、そういう大きな会社にありがちな噂じゃないかと、おれは思っている。さっき坂の上から見えた、地元の企業のことだ。




 おれたちは坂を下りきって、平坦な道を歩き始めた。砂が混じったぬるい風が頬に当たる。


「なあ、そういえば貫二はどうしたんだ? 今日いると思ったから、そっちに行ったんだけど」

「ああ、何か日野森(ひのもり)さんと夕ご飯食べるって」

「ふーん」

「あれ、テッちゃん約束してないの?」

「いや、特に」

「あー……ハブられたかあ、あるある」


 肩をバンバンと叩いてくる奈緒。


「うるせーな、男っていちいちそんなこと気にしないぜ」


 お前ら女子とは違うんだよ、と言うおれに、奈緒は食い下がる。


「でも貫兄ってどっちかって言うと……今は日野森さんと仲良くない?」


 ──まだ引っ張るか。

 

 中学生に男の友情を説くのも面倒だが、仕方ない。一息呼吸を入れてから、諭すように口を開いた。


「あのな奈緒、確かに、最近貫二は守とつるんでるみたいだけどさ。別にそれはおれと喧嘩したとか何だとか、そういうんじゃあないんだよ」


 友達っていつも一緒にいるもんでもないだろ、と続けるおれの言葉に何か思いあたる節があったのか、奈緒が「わかった!」と声を上げた。


「わかってくれたか? まあ女子は誘っただの誘わないだの、いちいち面倒臭そうだけど──」

「テッちゃんが童貞だから仲間外れにされたんでしょ」

「はああああああああああ?」


 いきなりな言葉に、おれは思わず大きな声を上げた。周りの通行人が何事かという顔で、おれの方を振り向く。


「だからテッちゃんが童──」

「うるせ! お前どういう意味か分かって言ってんのかよ!」


 口を手で塞いでも、もごもごと言葉を続けようとする奈緒。


「──くるしい!」

 

 奈緒はおれを(にら)んできたが──そうしたいのはこちらの方だ。


「お前さあ、何を根拠にそんなことを言うわけ? ていうか誰から聞いたの?」

「よくわかんないけど、日野森さんがそう言ってた」

「クソがああああああああああ」


 守の悪い顔が思い浮かんだ。

 

 ──ダチの妹に何を吹き込んでるわけ、あいつは?


「あ、あのなあ奈緒……」

「うん大丈夫、誰にも言ってないから、今は」


 ──『今は』って何だよ『今は』って……!

 そうツッコミを入れたいが、奈緒が守に肩入れしているのは十分知っていた。きっと守の言うことなら何でも正しいと思っているに違いない。

 酸欠気味になった頭を振って、何とか態勢を整え──おれは中学生の妄信を崩そうと試みた。 


「あのなあ、おれも守も、お前の兄ちゃんも、高校二年生なの! 十六歳か十七歳なの! わかるよな?」

「うん、だから何?」

「だーかーらー、別にそういうことがなくても当たり前なの」


 そうだ、むしろ今の時点でいろいろ済ませている奴の方が少ないはずだ……そうに違いないのだ。


「でも日野森さん、水泳部で彼女がいたことない男子ってテッちゃんだけだって言ってたよ」

「もう、守は何なの……また喧嘩する気かよあいつ」

 

 守の悪魔のような笑顔が心の中を占拠する。気を落としたと思ったのか、奈緒が大丈夫だよ、と肩をポンポン叩いてきた。


「テッちゃん可愛いから。彼氏ならすぐできるんじゃない?」

「だから、そういうネタでいじられるのが嫌なんだってば、おれは!」

 

 ──許さん────次にキャッチボールをするときには、もう容赦しない。本気で投げる。

 肩をうならせながら、おれは交差点を大股で渡った。



 ****



「──ていうかね奈緒、今俺らの中で彼女持ちっぽいのは、一人だけだからな」


 交差点を渡りきった奈緒に先ほどの話を続けた。自分ばかりが下げられ続けるこの状況に納得がいかなかった。


「だれ? 貫兄? 貫兄って自分からそういう話ししないでしょ、聞いても答えてくれないしさ。だからわかんないんだよね」

「あーそうだな……」

 言いかけた言葉を引っ込めた。奈緒に余計なことを漏らして、貫二の頑張りを駄目にしたくなかったからだ。「違うよ」

 

 おれが言ったのは東並舞(とうなみまい)のことだった。あいつこそモテの王道を行ってるはずだ。守は見た目で釣った後、そのあまりの自分主義について行けない女が愛想を尽かす、というパターンが続いているようだ。だが舞は別れた女とも険悪になることなく良好な関係を続けているようだった。


「お前会ったことないかもしれないけど、その女みたいな名前の男が一番モテるの。偉そうなことを言ってる守だって、今はいないんだからな」

「知ってるよ、私日野森さんのファンだもん」


 奈緒はニコニコとしている。恋は盲目、知らない方がきっといいこともある。


 大きくため息をついて前を見ると、にぎやかな音とともに、黄色い砂が舞うグラウンドが見えてきた────小学校だ。

 運動会の真っ最中だ。


「懐かしいな」

 

 六年通った学校だった。


「ほんとだね……、私なんかほんの二、三年前まで小学生だと思ってたのに」

「おれだってそうだよ」


 響くピストルの音、聞き覚えのある音楽。今は紅白対抗リレーのようだ。

 足だけは速いおれは、六年間他の誰にも負けずに一等を取り続けた。中学も高校も、陸上部と水泳部の入部を最後まで迷ったのを思い出した。結局貫二の後をくっついて、水泳部を選んだのだが。

 高校でも週末に体育祭がある。だが今は走ることよりも、泳ぐことの方がおれには重要になっていた。


「テッちゃん、運動会のときだけ輝いてたよね」

「『だけ』って何だよ『だけ』って」


 少しだけ見ていこうと、校庭脇の小門をくぐって観客に混じった。芝生の斜面に腰を下ろすと、グラウンド全体がよく見えた。

 懐かしさがこみ上げてきた。何番だろうと最後まであきらめず、全力で走る子供たちを見ていると──自分も頑張れる、そんな気がしてきた。


「おれもがんばろ! 背泳ぎ(バック)


 決勝に出るには五秒以上タイムを縮める必要がある。今は無理でも、自分の精一杯を出して記録を更新したい。

 

 ──メドレーだって今年は二年だけで出るんだ。舞につなぐために、おれが頑張らなきゃ。


「よし! 自分が今できることを精一杯やるだけだ」

「テッちゃん……」


 奈緒が変な顔をしてこちらを見てきた。


「何だよ」

「テッちゃんのくせに、何かかっこいいこと言ってる……」

「お前、デコピンしていいかな」


 奈緒のおでこを軽く弾こうとしたとき、校庭の隅に明るい金色の頭が入ってきた。


「……あいつ……?」


 金髪男は三十代前半ぐらいだろうか。その男は派手なジャケットにサングラスをかけて、足を引きずりながら斜めに歩いている。

 派手な格好をした奴だなという印象しかなかった。だがグラウンド隅にある体育倉庫、その裏に男が入っていったとき────ポケットに入れた右手が、キラリと光った。


「あっ……!」

「え、何、どうしたの……?」


「財布と携帯、持ってて」ポケットから出して奈緒に投げる。


「ちょっと……!」


 芝生の斜面を一気に滑り降り、観客の隙間を縫って走った。


「ちょっと!」「いたっ」


「すいません! ちょっと通して……!」


 グラウンドの一番端を、腰を落として駆ける……!

 

 ──もうすぐ体育倉庫だ!


 勢いを付けて裏にまわった次に視界に入ったのは、ナイフを振り下ろす男!

 刃物の先は……女の子だ!


「このッ、待てよ!」


「なっ!」気づいた男がこちらを向く。「くそおおおおっ!」


「うああああああああああ!」

 

 おれは走った勢いのまま、肩でぶつかっていった……!


「ンゲェッ……!」


 肩を男の上半身に力一杯当てる! 奴がナイフを落とした瞬間、金の髪の毛を思い切り掴んで床に引きずり倒した!


「ハァッ……ハァッ…………ハァッ…………」


 肩で息をするおれの下で、男が嗚咽を漏らし始めた。


「…………ちくしょう…………ウッ……ウウウウ…………ウアアアアアアア…………」



 ****



 結局、学校側は今回のことを警察沙汰にはしなかった。その後の処置は男の所属先に一任するらしい。

 運動会を頑張っている児童たちをいたずらに不安にさせることは避けたい、というのが表向きの理由だ。襲われた女の子の父親が、警察へ被害届を出すのを断ったというのも大きい。 

 実際のところは、男が────(くだん)の、地元大企業に勤める現役の社員だったというのが理由だろう。そして襲われた女の子の父親は、男の直属の上司ということだった。





「結局、キルフィーのタルト食べ損ねちゃったね」


 鈍い灰色の空の下で、おれと奈緒は来た道を引き返していた。

 運動会は無事終了した。だがおれたちは、男を地元企業の研究所員たちに引き渡すまで、事務室で拘束されていた。

 おかげでもうすっかり、夕飯前のいい時間だ。


「まあいいよ、また次回食いに行こうぜ」

「次回っていつかなあ、何月何日のことかなあ」


 このまま、うやむやにしてしまうのも手だな。そう思ったおれの考えを読んだのか、奈緒はしっかりと日時を決めようとしてくる。


「う、そうだなあ、これから六月に入ると大会もあるし、それが終わったらテスト、それが終わったら夏休み初日から合宿だろ──」

「ちょっと、テッちゃん全然決める気ないでしょ!」


 プリプリと怒る奈緒におれは「お前、受験生だろ」と反撃した。


「受験生だって甘い物食べたいんだから」

「貫二に連れてってもらえよ」

「……」


 奈緒が急に立ち止まった。


「おい」

「……あのさ」


 顔がひくついている。


「テッちゃんと行きたいって……言ってるじゃない……」


 やばい、奈緒の目が赤くなってきた。


「あー泣くな奈緒、行くから! 一緒に行くからさ!」


 潤んだ瞳で見上げてくる。「じゃあいつ?」


「えーと、合宿終わったら……でいいかな?」

「何それ、あと二ヶ月後?」

 

 不満げな顔だ。


「おれだって日曜練とかあって忙しいんだよ」


 じっとおれの目を見ていた奈緒が、プッと吹き出した。「へんなの」


「何がだよ?」


 おれたちは坂の下で立ち止まった。おれの家と、奈緒の家との、ちょうど分かれ道だ。


「だってテッちゃんと彼氏彼女みたいな会話してるから」


 そんなこと、思いもしなかった。だって奈緒(こいつ)は幼馴染みの妹じゃないか──。

 笑い飛ばそうとすると、奈緒は目の端に少し涙を浮かべて微笑んでいた。

 その顔が何だかとっても可愛く見えて、思わず彼女の頬に手を伸ばした。


「奈緒──」


 桜色の唇が目に入った。奈緒が目をゆっくりと閉じる。

 ここが道端だということも忘れていた。彼女の両肩を抱いて顔を近づけ──。



「あの、すいません!」



 突如として掛けられた声に、心臓が跳ね上がった。

 振り返ると、さっき男に襲われた女の子だった。走ってきたのだろうか、少女は息を切らしている。


「あ、あの……」

「へっ、はい!」

「ちゃんと、お礼も言わずにすいませんでした……! 助けていただいて、本当にありがとうございました!」


 当然といえば当然だが、奈緒はもうとっくに目を開けて、少女とおれを眺めている。


「わ、私……男に襲われたとき、一緒にいた彼氏も逃げ出しちゃって……もうダメかと思ったんです!」


 ──あ……そうか、そういえばこの子……どっかで見たような気がしたんだ。


 鉢植えを運んでいたとき、坂ですれ違った少女だった。

 気にしないでいいよというおれに、彼女は言葉を続ける。


「いえ、あ、あのそれで私……」

 

 少女の顔が茹で蛸みたいになっている。


「あ、あなたのことが……好きになっちゃったみたいで……」


 ──ま、まじで! ついに来た! おれの時代がついに来た! どうだ守! 貫二と飯食ってる場合じゃねーぞっての、バーカ!

 

 奈緒の厳しい視線には気がつかないふりをして、少女の顔を見た。

 中一、中二ぐらいか……? 見たところ、奈緒(こいつ)の知り合いではなさそうだ。高二のおれが手を出すのは、やはり犯罪だろうか──。


「ちょっとテッちゃん?」

 

 奈緒が小突いてきた。咳払いをして姿勢を正す。


「それであの……」


 少女の言葉を待つ。


「お、お姉様って呼んでも、よろしいでしょうか?」

「は?」

「恥ずかしいー! 言っちゃった言っちゃった! あの私、ちょっと遠いんですけど、電車で毎日女子中に通っておりまして、それで──」

「はあ……」


 その少女は隣県の女子中に通っているということだった。それで是非とも今度、おれを強い女の代表として、仲間うちに紹介させてほしいという申し出だったのだが──。

 当然、謹んで辞退させてもらった。


 肩を落として去っていく少女を見送った後、奈緒は笑いを堪えた瞳でおれの顔を見てきた。


「み、短い春だったね……プッ」

 

 もう我慢できないという感じで奈緒が笑い出した。


「もういいよ……笑えよ……こんなおれを……笑ってやってくれ……」


 そんなに上手くいくわけないんだ。こんなことで彼女ができるのなら、もうとっくに彼女持ちだ。


「ハッヒャヒャヒャヒャ…………」


 変な笑いになっている奈緒に、それじゃあな、と手を上げて帰ろうとしたとき──。


「あ、ま、待ってよ!」


 奈緒が右手を差し出してきた。


「あ、あの今日、ありがとね!」

「あーいや、ケーキ食いに連れて行けなくてごめんな、また夏休みに行こうか」


 おれも右手を差し出して、しっかりと握手をした。奈緒は小声で何かを呟き、今はとても満足そうな顔をしている。


「あ、あのね……うちに代々伝わるおまじないがあってね」

「うん?」


 そうだ、奈緒の家はとにかく古くて、先祖は室町時代まで遡る。


「こうやって──大事な人と右手で握手をして、秘密の言葉を唱えるとね、きっといいことがあるっていう──その人を護ってくれるっていう『おまじない』があるんだ」

「そりゃ御利益ありそうだな」

「そうだよ、何せうちの五代の祖が実証済みらしいから」

 

 だからテッちゃんにもやったんだよ、と笑う。


「ふーん」

「それじゃね! あ、そうだ──」


 坂を駆け足で上っていく奈緒がぴたっと止まった。


「あのさー、私テッちゃんの高校、受けるからねー!」


 奈緒の大きな声が響いた。


「頑張れよ受験生ー! 結構倍率高いぞー!」


 坂の真ん中と下とで大声を出し合いながら、俺たちは手を振った。

 奈緒は時々振り返りながら、手を振ってくる。おれも奈緒が見えなくなるまでその場に立ち続けていた。振り終わった手は、ほんのりと温かかった。



『大事な人と握手して、秘密の言葉を唱えると──その人を護ってくれるっていう』



「……ん?」

 

 何かをさらっと言われたような気がした。奈緒の言葉を繰り返してみるが──結局それが何なのか、わからないままだった。

 

 女の子の気持ちを理解するというのは、不可能なことなのだろうか。

 いや、青いバラだってできたんだ。

 いつか解明できる日がくるかもしれない。


 見上げた空は暗い灰色だけど、少しだけオレンジ色が混じっていた。その色に、気まぐれな奈緒の笑顔を重ねてみる。


 ──おたがいがんばろうぜ。


 心の中でもう一度エールを送ってから、おれは家路についた。

おつきあいいただき、ありがとうございました。

(09/24)一部追記、修正

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― 新着の感想 ―
[良い点] 会話のテンポとかがおもしろく、楽しく読ませていただきました♪ 短編でもしっかりした内容で、起承転結があり、よくまとまっていると思います。 発展しそうな二人の感じがいいですね! [一言] こ…
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