恨み
結局、カズヒロは助からなかった。とてもそんな傷ではなかった。ナイフは急所を貫いた上、内臓にまで達していたらしい。ほぼ即死だった。
苦しまなかったのがせめてもの救いだろうか? しかし彼が最後に耳にしたのは姉を侮辱された言葉だった。
カズヒロは怒りの中で、こときれてしまった。
連絡を受けたヒロ子が、運ばれた病院にすぐに飛んできた。アツシに迎えられ、病室に入るとベッドの横に座っているハルを一瞬だけ見た。そしてカズヒロの遺体にすがりついて泣き崩れる。
病室には強い西日が射しこんでいた。日暮れ間ぎわの夕日が、白い病室を赤く血の色のように染め上げている。
アツシは表情を失ったまま座っているハルを立たせて、病室から引っ張り出した。
病室を出てからもアツシはハルの腕を引っ張り続けていた。やがて人気のない場所まで来ると、ようやくその手を放した。
「ハル、よく聞け」アツシは表情を凍らせたままのハルに向かって言う。
「お前は弟分を失った。お前が面倒を見て来たんだから辛いだろう。だが、ヒロ子さんはこの世に一人だけの肉親を失ったんだ」
ハルの表情は動かない。凍ったままだ。
「しかも、彼女は女でお前は男だ。だから俺はお前に言う」
微動だにしないハルにアツシは話し続ける。
「乱闘で何があったかは絶対に口にするな。ましてヒロ子さんの耳に入れるな」
ハルの目が一瞬、反応する。
「カズヒロは、相手のつまらない挑発にカッとなって刺されたんだ。それだけだ」
その瞬間、ハルがアツシにつかみかかった。凍っていた表情に怒りが現れる。しかしアツシは動じない。
「そう言う事にするんだ。俺も胸のうちにしまっておく。墓場まで持って行く」
アツシがきっぱりと言った。
「カズヒロは、俺が殺したも同然だ。あいつは最後までヒロ子さんの名誉を守ろうとしたんだ」
ハルはアツシを締め上げるようにして押さえつけている。それでもアツシはハルを見据えている。
「それでもだ。あいつは最後まで戦った。だが、もう帰ってこない。ヒロ子さんは生きなきゃいけないんだ」
ようやくハルはアツシをつかむ手を緩めた。アツシが軽くせき込む。
「俺はカズヒロを殺した。ヒロ子さんに謝罪したい」
「謝ってもカズヒロは帰らないぞ」アツシは容赦しなかった。
「お前だけ罪悪感から逃れようっていうのか? そして彼女にも同じ苦しみを味あわせるのか? カズヒロの名誉を守っても、カズヒロはもう帰らない。俺達はカズヒロを守れなかったんだ」
ハルは返事をしなかった。また、表情を失って行く。
「今はヒロ子さんを傷つけない事だけを考えよう。カズヒロを守れなかった以上、それが俺達の責任だ」
そう言ってアツシは病室へ戻っていく。ハルはその場に呆然と立ち尽くしていた。
親類もほとんどいないカズヒロの通夜と葬儀は、とても寂しいものだった。ハルはヒロ子のそばに付き添っていたが、本当にただ、そばにいるだけだった。慰める訳でもなく、励ます訳でもなく、カズヒロについて語り合う訳でもない。むしろ、カズヒロの事を口に登らせる事を、二人とも恐れているようだった。
そんな小さな式を、組長とおかみさんは殆んど取り仕切った。出来うる限り、ヒロ子に負担がかからないよう、細かな事まで気をまわした。そして連日のようにヒロ子に謝罪をした。カズヒロを守り切れなかった事を日々、詫びた。
ハルも一緒に頭を下げていたが、本当に詫びたい言葉を口にできないまま下げる頭に、かえって苦悩が増えるばかりだった。
法事も、用件も一通り終えると、ついにヒロ子がカズヒロの最後の様子を尋ねて来た。ハルは口が開けなかった。
アツシは喧嘩のさなかに一瞬のすきを突かれて刺されたのだ、とだけ答えた。
「背中から刺されるなんて、よっぽど、どうしようもない状態だったんでしょうね」
ヒロ子がため息交じりに言った。
「あっという間でした。俺もハルも交戦中で、どうする事も出来ませんでした」
アツシはよどみなく答えた。
「そうですか……」そう言いながら、ヒロ子はハルを見ていたが、ハルは視線をそらし続けていた。
ハルは逃げるように組に戻ったが、今度はここでカズヒロが使っていた日用品を何とかしなければならなかった。半年以上の月日を過ごしていたので、それなりに物も増えている。勝手に処分も出来ないので、ヒロ子に渡さなければならない。カバン一つでやって来たカズヒロだったが、今ではカバンの他に段ボール一箱分の荷物と、ヒロ子が渡した紙袋が加わっていた。私物が片付くと意外なほどカズヒロの痕跡は消えてしまった。それがかえって悲しい。
段ボール箱は宅配に任せ、カバンと紙袋はハルが直接ヒロ子に手渡す事にした。もう、あの日の事を聞かれることはないだろう。
ヒロ子の部屋も様子が変わっていた。仏前を整えるために、かなり部屋の物を片づけたので、以前のようにカズヒロの物が目につくような事は無くなっていた。
あの時はカズヒロが帰ってくる期待に裏切られている悲しさが部屋に漂っていたが、今は絶望による悲しみが部屋を包んでいる。もう、本当にカズヒロはいないのだ。
ハルはカバンと紙袋をヒロ子に渡した。どうしても、この紙袋を受け取った夜の事を思い出す。おそらくヒロ子も思い出しているのだろう。
「あの日……」ついにハルは口を開いた。
「俺はカズヒロを守るとあなたに誓いました。なのに俺は守れなかった。あなたとの約束を破ったんです」
「誓いながらもあなたは言葉を詰まらせていましたね。こういう世界だから、はっきり誓う訳にはいかなかったんでしょう?」ヒロ子が悲しげに聞く。
「……いいわ。あなたが本当にカズヒロを守りたいと思っていたのは分かっているから。カズヒロは納得のいく人生を送っていましたか?」ヒロ子はさらに問いかけた。
「カズヒロはこの半年の間、心から納得のいく時間を過ごしてくれたかしら?」
これにはハルも答えられる。いや、答えなくてはいけない。
「心から、納得していたと思います。なにより、自分が好きで選んだ道だったんですから」
「最後まで?」
こう聞かれてハルは一瞬悩む。あの時、自分と姉とのことを知り、姉の名誉を守ろうとしたあの瞬間、カズヒロは後悔したのだろうか?
きっとそれはないだろう。最後まで姉を思い、姉の想いを理解していただろう。だからこそ、最後まで立派に戦ったんだ。カズヒロはその瞬間まで充実していたはずだ。
「最後まで、です。カズヒロは立派に戦いぬきました」
あなたの名誉のために。その言葉を必死で飲み込む。
「あの子は、幸せだったんですね」ヒロ子がしみじみと言った。ハルは黙ってうなずいた。
「あなたは俺を憎みたいと言ってました。今、改めて、俺を憎んでくれませんか?」
ハルが言った。
「カズヒロを守れなかったからですか?」
「それもあります。カズヒロを奪ってしまったこともそうです。それに、俺はあなたを傷つけています」
「私を?」
「あなたは俺を見れば、カズヒロを奪われた事を思うでしょう。守れなかった事を思い出すでしょう。憎む事も出来ずに、苦しめられた事を思い出すはずだ。俺の存在自体が、あなたを苦しめる事になるんです」
そして俺はカズヒロを殺したも同然だ。俺はこの人を真っ直ぐに想う資格がない。そんな男のそばに居させてはいけない。
「とてもあなたに逢う事なんて、もう出来ません。あなただって、前のように俺と逢うことはできないはずです。カズヒロはもう、この世にいないんですから」
「そうかもしれません」ヒロ子が仏前のカズヒロの写真に目をやる。
「だったら俺を憎んでください。カズヒロを奪い、死なせ、あなたを傷つけて去っていく俺を、誰よりも憎んでください。そうすれば俺にも少しは救いがある」
「今日はそれを言いに来たのね」ヒロ子がハルを見つめたまま言った。
「分かったわ。私はあなたを憎みます」ヒロ子の声が震えた。
「あなたを憎む……いいえ、恨みます。カズヒロを奪って、それなのに、私にこんな気持を味あわせておいて、私を一人ぼっちにしてしまう、あなたを誰よりも恨みます。一生恨み続けるわ」
「そうして下さい」ハルは立ち上がった。
「もう、帰ります」
背中を向けるハルに、ヒロ子が叫んだ。
「私、あなたを一生恨むわ。そして一生忘れないわ。忘れられないわ」
ハルは降りかえって告げた。
「ありがとう。元気で暮らして下さい」
そしてヒロ子の部屋を後にした。
外は夕暮れが迫っていた。空が見事な茜色に染まっている。
これでいいんだ。ハルは自分にそう言い聞かせながら、ヒロ子の部屋を離れていく。
ハルの恋はこうして終わりを告げた。
少なくとも、ハルの方では、終わりを告げた恋だった。




