挑発
男は深夜の住宅街を歩いていた。夕方、若い男に絡んだはいいが、逆にいいようにあしらわれて、むかっ腹を治めようと飲み歩いた末の酔いざましだった。
あいつ、前に喧嘩で見かけた時は、あの春治の陰に隠れてうろたえていたから、今度はつい、油断した。
いつの間にか腕っ節が上がっていたらしい。なんて呼ばれていたか……そうだ、カズヒロだ。
今日は春治を見かけなかった。別の見慣れない男と一緒だったから、ちょっと脅してやるつもりだったのに。
あんな半分子供みたいな若い奴にいいようにあしらわれたんじゃ、全く持っておもしろくない。
……まあいいさ。次は油断しない。今日はお互い丸腰だったし、今度会ったら礼をしてやる。
けっこう飲んで、さらに酔いざましで歩きまわっているうちに、腹立ちも治まり、男はいい気分で歩いていた。
ふと、歩く先にあるアパートの部屋の戸が開いて、まさしく春治が現れた。次に女の姿も見える。春治を見送っているらしい。
そう言えば、春治が女連れで街を歩いて噂になっていたはずだ。弟分の姉がどうとか。
成るほど、あの女がそうなのか。弟分と言う事は、カズヒロの姉と言うことだろう。色白の美人じゃないか。
もう、深夜もかなり遅い時間だ。こんな時間に部屋から出て来るということは、まあ、そう言う仲なんだろう。
畜生、俺の周りにはつまらない野郎ばかりで、あんな美人は一人もいないぞ。不公平だ。
一瞬、ここで春治に絡んでやろうかとも思ったが、酔っ払ったまま、一人、丸腰で春治に絡んでも勝算はない。酔ってはいても、その程度の知恵は回っていた。
癪に障るが仕方がない。さっさと帰って、今度は部屋で飲みなおすか。
男はぶつぶつ文句を言いながら、自分の部屋へと帰って行った
その日の見回りは、アツシがカズヒロについて行った。ハルはとうとうしびれを切らして、ヒロ子の様子を見に行くと言っていた。どうやらおかみさんにコテンパンに言われたらしい。
カズヒロも随分一人前になっていた。今日もチンピラに絡まれても、動じることなくうまくあしらっていた。
べらべらしゃべる、挑発的な相手だったが、あのカッとなっていたカズヒロが進歩したものだ。
ヒロ子さんには辛いだろうが、やっぱりカズヒロもこっちの水があっているのかもしれない。本人の直感は馬鹿に出来ない物だ。
「ハルさん、ちゃんと姉さんと話が出来たんでしょうか?」
帰り道でカズヒロが聞いてきた。問題はそこだ。
「どうもあいつはヒロ子さんの前に出ると、普通じゃ無くなるみたいだからなあ」
アツシも自信がない。
真正面から向き合って話し合えればいいが、ヒロ子さんにはぐらかされるか、ハルの方が逃げ帰ってくるか……どっちもありえそうだ。
「お前も自分がまいた種とはいえ、気の毒だな。ホントのところはあまり面白くないだろうに。ヒロ子さんはお前の母親代わりでもあったんだろう?」
「代わりですよ。母親じゃない。それに、俺の生き方だって認めてもらいたい。面白くないといっても、そんなのハルさんじゃなくったって一緒だ。ダシにされて板挟みにされるのは、誰が相手でも嫌ですよ」
よくできた弟だ。いや、出来が良ければこんなところに来ないのかもしれないが、思いやりはある。
「ハルの奴、一言、謝るぐらいは出来ていればいいが……」
そんな事を話していたら、何と、組の前でそのハルとばったり会ってしまった。
「ずいぶん遅かったな。とっくに帰っていると思った」
こりゃ、逃げ出してどこかをうろついてきたのかな? アツシはそう、勘ぐったが
「飯も食って来たんだ。寄り道もした。カズヒロ、これをヒロ子さんから預かってきた」
そう言ってハルはカズヒロに紙袋を渡した。
「秋物のお前の服だそうだ。風邪をひくなと言ってたぞ」
そう言って笑う。久しぶりのハルらしい笑顔だ。
「心配はしているが、お前をしばらく見守ってくれるそうだ。こまめに連絡をしてほしいとヒロ子さんが言っていた。お前の生き方を認められるかはともかく、反対はしないそうだ」
意外な言葉にカズヒロはぽかんとしていた。あの、姉さんが?
「お前、この間の事はちゃんとヒロ子さんに謝ったのか?」アツシが聞いた。
「謝った。許してもらったとはいえないが、きちんと謝ってきた。だからカズヒロを見守ると言ってくれたんだ」
これは、思った以上にちゃんと話しあう事が出来たらしい。アツシは胸をなでおろした。カズヒロも嬉しそうだ。
ホッとしながら部屋に戻ろうとすると、ハルがアツシに言った。
「お前が言ったとおりだった。俺は彼女が堅気だという事にこだわり過ぎて、かえって事を複雑にしていた。姉弟そろって、俺が守る覚悟をすればよかったんだ」
「やけに自信家になったもんだな」アツシがからかったが
「もう、守ってやるしかないんだよ」と、真顔で返された。
その、妙に肩の力が入ったようないい方に、アツシはやや、違和感を覚える。大丈夫か? こいつ。
翌日、アツシは何とはなしにハルの様子をうかがっていた。明るさが戻ったのはいいが、時折上の空のような表情をしている。まだ本調子とはいえない感じだ。カズヒロでさえ、気にしている。
一か月もぐずぐずしていたんだ。そう簡単に事は解決しないか。しかし、こんな時に余計な事が起きなきゃいいが。
そんな事を思っていたら、よりにもよって、その日の午後に大きな喧嘩が勃発した。
当然、ハルもカズヒロも助っ人に行くが、ハルがこのところ普通でない事は組長や、おかみさんも知っている。
それでも組で一番腕の経つハルを使わない訳にはいかない。何より本人が行くというに決まっている。
「今日は俺も出ます。ハルに何かあったら、引っ込めますから」
そう言ってアツシも喧嘩に出る事になった。
一度、乱闘のさなかに入って行って、引っ込む事が出来るとも思えないが、この際仕方がなかった。
乱闘の中、ハルは見知った顔を見つけた。以前、カズヒロに絡んだ事のある、おしゃべりな挑発屋だ。
「よう、昨日は世話になったな」挑発屋はカズヒロに声をかける。
そして、カズヒロに向かおうとするが、ハルが間に立ちふさがった。
「お前の相手は俺だ。おしゃべり野郎」
カッとなりやすいカズヒロにこいつの相手はさせたくない。カズヒロにかすり傷一つ負わせたくない。
ハルはいつもより、気が高ぶってしまっていた。いけない。落ち着くんだ。
カズヒロは隣でナイフを持った相手と向かい合っている。いい緊張感で相手の間合いを計っている。これなら大丈夫そうだ。ハルもそれを見て落ち着いてきた。
「昨日はお前の弟分に世話になったが、今日はお前が相手か。マメなこった」
「カズヒロは腕を上げたからな。お前じゃ相手にならなかったろうよ」
挑発屋がナイフで踏みこんでくる。ハルは軽くいなした。
「そんなガキみたいな奴、こっちだって相手にしてられねえよ」
挑発屋はむっとした表情を見せている。どうやら図星だったらしい。ますます口が軽くなる。
「弟分の腕が上がると、お前も暇が出来るようだな。そのうち腕が鈍るぜ」
口もナイフも良く動く。跳ね返しても、ナイフがしつこく振り回されてくる。それなりに使い慣れているらしい。
「俺に挑発は無駄だぜ。うかうかしてると、その腕が斬り落とされるぞ」ハルも凄む。
「昨日ものんびりしてたみたいじゃないか。ガキに見回りをまかせっきりで」
ナイフもしつこいが挑発もしつこい。早くかたをつけてしまいたい。
「あいつのアネキは美人だな。お前にゃもったいないや」
ハルは思わずぎくりとする。いや、これは挑発だ。乗せられてはいけない。それでもカズヒロの視線が気になる。おそらく聞こえているはずだ。
気が焦って、先に打ち込みに行くが、ナイフで跳ね返される。俺がうろたえてどうする。落ち着け。
「昨夜はお楽しみだったんだろ? 色白はいいよなあ。」
アツシはハルの隣で、鉄パイプを持った相手と木刀でやりあっていた。隣の会話も聞こえていた。おそらくカズヒロにも聞こえている。その時ハルの動きがぴたりと止まった。
顔色が変わる。明らかに動揺したのが見て取れる。あのバカ!
「ハル!」思い切り叫ぶ。
ハルはハッとしてナイフを刀で受けていた。さすがに慣れている。体が反応したらしい。
しかしまずい。ハルは一杯一杯だ。それにカズヒロに動揺が映ってしまっている。当然だ、あれじゃ白状したのと同じだ。何とかしたいが自分も喧嘩は得意じゃない。目の前の相手を何とかしないと。
しかし挑発屋は容赦なく言った。
「あんな女でも部屋に男を引っ張り込むんだな」
カズヒロが挑発屋の方に振り向いた。全く自分の相手を見ていない。
「この野郎!」
そう叫んで挑発屋の方に刀を振り上げる。自分の相手をしていた男に、まるきり背中を向けてしまう。相手の男はこの隙を見逃さなかった。カズヒロを追いかけるようにしてそのままナイフを深く背中に突き刺した。
ハルが挑発屋をやっとたたき倒した。アツシも鉄パイプの男から逃れて、カズヒロを刺した男を突き飛ばす。
刺した男も、ここまでする気はなかったらしく、呆然としている。皆、バラバラと逃げ出していく。
「救急車を呼んでくれ!」アツシが振り絞るように叫んだ。