謝罪
あの日、あれだけ脅し、怖がらせたにもかかわらず、ヒロ子は脅える事もなく、ハルの目の前にいた。
と言う事は、ハルの本心は完全に見抜かれてしまったのだろう。来るんじゃなかった。ハルはつくづくそう思う。
「昨日、おかみさんに会ったそうですね」あまりの気まずさに、ハルはそこから話し出した。
「ええ、静江さんもカズヒロは元気にしていると言ってました。でも、直接面倒を見ているあなたが言うのなら、本当に元気なようね。少し、安心しました」
ヒロ子は落ち着いてほほ笑むが、ハルの方は落ち着かない。今日は自分の方が動転してしまっている。
「とにかく立ち話も何だから、私の部屋に寄って下さい。お茶ぐらい入れます」
ヒロ子にそう言われて、ようやくハルも頭が回り出す。
「いえ、あなたの部屋に寄ったりなんて出来ません。今日はあなたの様子を見に来ただけです。すぐ帰ります」
わざわざ離れた場所で待っていた意味がなくなってしまう。
「私の?」ヒロ子に聞き返されて、ハルも戸惑ってしまう。
それはそうだ。二度と来るなと脅しをかけたのはハルの方だ。
「あなたの方から私を探りに来るのはかまわないという訳ね。私がカズヒロに会いに行くのはダメでも」
ヒロ子は皮肉で返してきた。
「あなたは組にかかわらない方がいいんですよ」
「カズヒロは手放せなくても、私は近づけたくないって訳ね? だったら、なんでこんなところまでその顔を見せに来たのよ。ほっといてくれればいいじゃない」
ヒロ子も興奮気味になってきた。通行人の視線が目に入る。
「ここじゃ話もできないわ。やっぱり部屋に来て頂戴」
確かにこれではかえって目立つ。仕方がない。結局ハルはヒロ子のいいなりになってしまう。この間とは逆だ。
ハルは部屋に通されて複雑な気分に陥った。少なくともそこは女の一人住まいの様子ではない。
あちこちにカズヒロの物が見受けられる。おそらくカズヒロが出て行った時のままに暮らし続けているのだろう。
カズヒロの物らしい上着はハンガーに掛けられているし、マガジンラックには春先の漫画雑誌が入ったままになっている。だが今はもう秋だ。彼女はここで、弟の無事を祈って暮らしているのだろうか?
「これから寒くなるから、帰る時に秋物をあの子に持って行ってくれないかしら? 後で送ろうと思っていたんだけど、ついでだから」
ヒロ子の指差す先に、衣類が入っているらしい紙袋が置いてあった。
「この間は私もそれどころじゃ無かったから、渡し損ねてしまって。このままじゃ冬になるわ」
そうだ。あの時、カズヒロとアツシにヒロ子の後を追わせたんだ。二人が部屋の前まで送ったはずだ。カズヒロも半年ぶりの、いつ戻ってもいいように整えられた部屋を、とんぼ返りで帰ってしまった。ヒロ子の心中はどんな思いだったのだろう。
「あの子はやっぱり帰らないつもりなのね」
紙袋を見つめながらヒロ子がつぶやいた。そして振り切るように背を向けて、お茶を入れる準備を始める。
こんな部屋にいると、ハルも罪悪感で居心地が悪い。ここにはカズヒロを奪われた、ヒロ子の悲しみが詰まっているようだ。せめて自分がカズヒロを仕込んでいなかったらと、ハルにも後悔が沸いて来てしまう。
「すいませんでした」
ハルはたまらず、ヒロ子の背中に向かって土下座をした。振り返ったヒロ子が驚いている。
「どうしたの?」唖然としてハルを見降ろした。
「この間の脅しも悪かったと思っていたが、この部屋を見て、身内の心配がどんなものなのか、よく分かりました。本当ならもっと早くに謝るべきでした。俺の考えは甘かった。簡単にカズヒロを受け入れるべきじゃ無かった。今更遅いのは分かってはいるが、やっぱり謝らないといけない。本当に申し訳ない」
ヒロ子は複雑な顔をしている。怒っているような、あきらめたような。
「もう、遅いというなら謝ったりしないでください。脅されたなんて正直思っていません。カズヒロは戻らないと、私に思い知らせたかったんでしょう? それなのに謝られても意味がないわ。あの子が帰らないのならね」
それはそうだ。彼女の願いはカズヒロが帰る事だ。しかし謝りたいのはカズヒロの事だけじゃない。
「謝るぐらいだったら、カズヒロの人生に責任を持ってよ。あなたは私の手の出せない所にあの子を連れて行ってしまったんだから。あなたは私からあの子を奪って行ったんだから」
ヒロ子は半分、泣き顔のような顔でそう言った。そこを突かれると、ハルは何も言えなくなる。おそらくカズヒロは彼女の生き甲斐だったのだろう。それを奪った以上、どう謝っても許されるとは思えない。
それにもっと謝りたい事がある。なのに、カズヒロの事が立ちふさがって、話を持ち出す事さえできない。
「勿論、責任は持ちます。カズヒロは俺が守ります。あなたに代わってカズヒロが納得できる人生を送らせてやります。だから……」
「だから?」
許してほしいとはいえたもんじゃない。安心しろとも言えない。とてもそんな事の言える世界じゃない。ハルは言葉に詰まった。
やかんに湯が沸いて騒がしい音を立てる。ヒロ子は再びハルに背を向け、火を止めた。まるで全てを拒絶するようだ。
ヒロ子がこの部屋を自分に見せたのも、カズヒロの話題にこだわって見せるのも、明らかにあの日の自分への仕返しだ。
それ相応の代償か。あの時俺は彼女を拒絶した。今まさにそれを支払わされている。でも、こうして彼女は自分と会ってくれている。ここで本当に謝らなければ、二度と機会はないかもしれない。
もう、カズヒロを逃げ口上にしている場合じゃない。ハルは覚悟を決めた。
「俺が本当に謝りたいのは、カズヒロの事じゃありません。あなたを傷つけたことです」
ついにハルは言った。
ヒロ子がのろのろと振り返る。おびえたような目をしていた。
「あなたは俺の気持ちを全部知っている。しかも俺はそれをあなたに伝えていない。むしろ、カズヒロの事の陰に隠れていた。それでもあなたは通ってくれていた。そして俺はあなたを傷つけたんだ」
ハルは彼女の目を見た。必死で視線を外されないようにする。
「俺は卑怯でした。男らしくなかった。逃げ回っていたくせに、あなたの名誉を守ったような気でさえいた。本当に申し訳ない」
「謝らないでよ……」ヒロ子が喘ぐように言う。
「なんでそんな目で私を見るのよ。あなたは私からカズヒロを奪った、とても憎い人なのよ。私はあなたを憎みたいのに」ヒロ子の目から涙がこぼれ出した。
前にもこんな事があった。ヒロ子は緊張していたのだ。その糸が切れると、彼女はこうやって涙をこぼしてしまう。
「なのに、どうしてそんなに優しい目で私を見るの? 何故、私を放っておいてくれないの? 私を脅した時でさえそうだった。あんなのちっとも脅しじゃない。あんな風に、優しい、悲しい目で見られたら、あなたをどうやって憎めばいいのよ!」
ヒロ子は自分の言葉に弾かれた様にハルの前に詰め寄った。
「あなたを憎みたかったのに……。私はどうすればいいのよ?」
そして、ハルを見つめながら、ひざから崩れるように座りこんでしまう。
「私は自分が許せない。あなたに脅されて、あんな事を言われて、なのに」一時、言い淀む。
「あなただったら、かまわないとさえ思ってしまった」
ハルの息がとまる。
「悔しかった。あんまりにも悔しくって……。私が震えたのは怖かったからじゃない。あなたを望んでしまった自分が、情けなくて、恥ずかしかったからよ」
ヒロ子はうつむいたまま、こぶしを握り締めている。
「さっきあなたに会った時は、本当に嬉しかった。二度と会えないと思っていたから。私はどうしたらいいの?」
泣きながらヒロ子は繰り返す。
「あなたは悪くない」ハルはそう言ってヒロ子の肩に手を置く。
「あなたはカズヒロを心から心配しただけだ。俺の気持ちにただ応えてくれただけだ」
そう言ってヒロ子を自分の胸に抱きとめる。
自分が上ずっているのが分かる。ヒロ子も混乱している。分かってはいるが、目の前のヒロ子が愛しい。
「このまま俺を、憎んでくれていいんですよ」そう言いながらもヒロ子を離せない。
「無理よ、そんな事。だから苦しいんじゃない」ヒロ子は胸の中で泣いている。
なんでヒロ子をこれ以上苦しめる必要がある? 言いたい奴には言わせておけばいいんだ。二人とも俺が守りきって見せる。なんの根拠もない自信で、ハルは世間に挑むような気になっていた。
こんな時に平静でなんかいられるもんか。ハルは、ヒロ子が堅気だということも、カズヒロの姉だということも、その瞬間忘れてしまう。忘れようとしてしまう。
その夜、ハルはヒロ子の部屋にかなりの長居をしてしまった。その事をハルは後で死ぬほど後悔することになる。