再会
やはりハルの態度と脅しがよほどこたえたのだろう。ヒロ子はあれから華風組に姿を見せなくなった。
ヒロ子が来なくなった事で、事務所から夕暮れ時の華やかな時間が消え去った様な寂しさが漂ってはいたが、本来の日常に戻った落ち着きも見せ始めていた。
ハルはカズヒロの言った言葉が引っ掛っていた。
「今度の傷は深いかもしれない」
自分がヒロ子とかかわったのは、ほんの二週間ほどの事だ。しかも話したことと言えば、すべてがカズヒロに絡んだ事。個人的な会話なんて一切なかった。
普通に考えれば初めの恐怖感さえ去ってしまえば、脅された不快感はあっても自分の事など徐々に忘れられていくはずだ。
たとえ彼女が自分に好意を持っていたとしても、たかだか二週間ほどの印象では、あの日の脅しで百年の恋も冷める心地がしたに違いないのだ。
大丈夫だ。彼女は日常に戻って行った。
そう言い聞かせながらも、一方で不安も募る。しかしもう、彼女の様子を知る手だてはないのだ。
カズヒロも姉の様子は気になるに違いないのだから、見に行かせればいいのだが、自分が「二度と会わせない」と言った手前もあるし、余計な事をべらべらしゃべられても困る。
カズヒロはハルが内心、ヒロ子の事が気になって仕方がないのを知っている。傷が深いなどと言ったのも、自分をあおるためにわざと言ったんじゃないか? と、勘ぐれない事もない。あの時は姉に同情的だったし。
これではとてもカズヒロには頼めない。
十日、二十日と悩んだ末、ひと月後、結局ハルはアツシに声をかけた。
アツシも今度の件には不満そうだったが、それでも身内のカズヒロよりはましだろう。
「ヒロ子さんの様子を見て来てくれないか?」
ハルがそう言った途端に、アツシの顔が、それみたことか、と言っていた。そこもハルにはおもしろくない。
「お前が良く今まで我慢していたと思ってたんだ。あんなやり方からしてお前らしくないし、人を傷つけておいて放っておけるような性質じゃない。ヒロ子さんの事ならおかみさんに聞けばいい」
「おかみさん?」
「あの後さすがに心配して、おかみさんがカズヒロの近況をヒロ子さんに伝えると約束したんだ。昨日も会って来た筈だ」
「ちょっと待て。おかみさんはヒロ子さんに何を話したんだ?」ハルはうろたえた。
「そこまでは知らないね。おかみさんに聞くんだな」アツシはそっけなく言った。
なんだよ。普通に考えれば、俺の選択は決して間違いじゃないはずだ。正しいとは言えなくても彼女の名誉だけは守れたじゃないか。やり方は荒っぽかったかもしれないが、あれなら間違いなく愛想も付きてちょうど良かったはずだ。それにそんなに傷が深いとは思えない。たった二週間の事なんだし。
たった二週間。それでも彼女は俺の近くにいた。俺の傷は……浅いのか?
色々と考えているうちに組長達の自室の前に来てしまい、ハルはおかみさんに声をかけた。
「ヒロ子さんなら、ちゃんと仕事に通っているわよ。体調は大丈夫みたい」
おかみさんもわざと引っ掛る言い方をする。じゃあ、気持ちの方はどうなんだ。
「俺の事で何か話をしたんですか?」ハルはたまらず聞いて見る。
「なにも。ヒロ子さんも聞いてこなかったし、私が口を出すことじゃないし」
とりあえずは一安心か。せっかくの脅しが水の泡にならずに済んだ。
「でもハル。あんな真似は二度としないで頂戴。そんな顔でひと月も過ごすんならね。あんたはヒロ子さんの心配で頭がいっぱいでしょうけど、こっちはあんたの事も心配しなくちゃならないんだから」
「そんなにひどい顔してますか? 俺」
「気付いて無いのはあんただけ。組中で言ってるわよ。結局ハルの方がイカレたんだって」
そう言えば何か噂されていたような……アツシの態度はそのせいか。
「それにね、私はあんたに腹を立ててるの」おかみさんは不満顔のまま言う。
「言っとくけど、私はヒロ子さんを堅気の女としては見ていませんからね」
「はあ?」意外な方向に話が飛んで、ハルは間の抜けた声を上げた。
「ヒロ子さんは事務所の戸口の近くにいつも座ってあんた達を待っていたの。何をするでもなく、組の者にからかわれても、何を言われても、ただ、戸口を見つめて待っていた。あんた達がどんな所を歩いているか、知ってしまったから。不安と心配を飲み込んで、ひたすら待っていた。あれは堅気の女の姿じゃない。見送った以上、何があってもおかしくないと覚悟をして待っているこっちの世界の女の姿だった」
おかみさんはハルをじっと見据えて言う。
「あんたが拒絶したしたのは、そう言う覚悟を持った人だったのよ。ヒロ子さんが傷ついたのは脅しなんかじゃない。彼女の覚悟ごと否定した、あんたの拒絶よ」
意外な事を言われて、ハルはただ絶句した。そう言う考え方はした事が無かった。そう言えば前にアツシも言っていた。彼女はとっくに巻き込まれている。彼女の意思でここに通ってしまったからと。
「ヒロ子さんを受け入れればよかったとは言わないし、あんたが間違っていたともいえない。でも、追い打ちをかけるようで悪いけど、あんたがヒロ子さんをどういう傷つけ方をしたかは知っておいてほしい。拒絶をするにしてもあんな風な逃げの態度じゃ無く、一度キチンと向き合ってほしい。ヒロ子さんに失礼よ」
「今更、どんな顔して彼女に会えっていうんですか?」
「いいんじゃないの? そんな顔のまんまで。自分がまいた種でしょう? ビクビクするのもいい加減にしなさい。自分の気持ちを見透かされるのが怖くて脅えているだけじゃないの。男らしくない。脅えて強気に出て人を傷つけたんだから、それ相応の代償を払うのは当然よ」
ハルはおかみさんにぴしゃりと言われて、追い出されてしまう。
俺は自分が考える以上に彼女を傷つけた。
おかみさんに言われて、その事だけが胸に突き刺さってくる。
あの時は彼女の顔も見るのが辛くて、脅す事に夢中になっていた。彼女がどんな表情をしていたのか、ほとんど記憶にない。まともに顔を見たのは、最後に脅しをかけた時だけだった。
その時だって、彼女がすぐに視線をそらしたので見たのは一瞬の驚きの表情だけだ。当たり前だ。脅されていたんだから。
その後、彼女はどんな顔をしていたんだろう? 後を追いかけたカズヒロが、「今度の傷は深い」と言っていた。
考えてみればカズヒロにとっても、俺は姉の相手としては歓迎できる男じゃないはずだ。堅気の男ならいくらでもいる。それでもあいつは姉の気持ちを推し量っていた。それほどヒロ子の傷は深いのだろうか?
あの時ヒロ子はそれほど深く傷ついた顔をしていたのだろうか? だからアツシも不満顔でいるのだろうか?
どの道このままじゃ気になってどうしようもない。
とうとうハルは観念して、ヒロ子の様子を見に行くことにした。
様子を見るといっても、彼女の部屋には近づけない。俺みたいな男がうろついて、変なうわさが立っても困る。ましてや仕事先になどもっと近寄れない。
ハルはヒロ子の部屋から少し離れた通り道で、彼女を待つことにした。こっそり様子だけをうかがって、元気そうならそのまま帰ればいい。様子がおかしければ……その時はその時だ。
やがてヒロ子は現れた。こちらに向かって歩いてくる。途中で商店の女性に声をかけられ、笑顔で挨拶している。
もう、この辺りは彼女の生活の範囲内なのか。もう少し、離れた場所で待てばよかった。と、ハルは後悔したが、同時におかげで元気そうな様子も見られたとホッとする。
やはりこのまま帰ろう。そう思った時だった。
夕日が強く差してきた。背中に暖かな西日のぬくもりを感じる。夕映えがヒロ子の姿を包みこんだ。
通った鼻筋。美しい横顔。頬に射す赤み。
はじめて彼女を見かけた時もそうだった。夕暮れ時の日差しの中で、彼女はいっそう輝いて見えた。ハルは彼女に見とれてしまった。あの日と同じように。目が離せない。足も動かなかった。
ヒロ子がこちらに振り返った。そしてハルの視線を捕らえる。きっとあの時も、ヒロ子は自分の視線に気づいていた。偶然なんかじゃなかった。そう、ハルは確信した。好意と言うのは思っている以上に相手に伝わってしまうらしい。
カズヒロをダシに、彼女が通って来た? 逆だ! 自分が彼女に好意を伝えてしまっていたんだ。彼女はそれに応えてくれたに過ぎなかった。
それなのに俺は、脅えて、強気に出て、彼女を傷つけた。
彼女が俺の目を見ている。きっとすべて見透かされている。どうすればいいんだ?
ついにヒロ子はハルの目の前に来た。
「カズヒロは元気にしていますか?」ヒロ子はそう聞いてきた。
「ええ」そう言いながら、ハルは途方に暮れていた。