通い路
次の日もヒロ子は宣言通り、華風組にやってきた。しかも夕方の見回り時にきっちりと現れた。
ヒロ子にも仕事があるはずだから、少し早めに出ればかち合うことはないだろうと甘く見ていたが、どうやらこちらの魂胆は見抜かれていて、わざわざ早退してきたらしい。
「だから言ったじゃないですか。姉さんはしつこいって」
カズヒロはそれ見た事かとハルを睨む。
「しかたがないです。裏から出ましょう」カズヒロはそう言ったが
「いや、そんな事をすればまた昨日の騒ぎの繰り返しになるだろう。とりあえず、見回りが終わるまで事務所で待っていてもらおう」
やむなくハルはヒロ子に事務所で待つように告げたが
「それなら私もその見回りに付いて行きます」と、言われてしまった。
「とんでもない! 堅気の女性を連れて歩けるような場所じゃありませんよ」
ハルは驚いてそう言ったが
「誰も連れて歩けなんて言ってません。私が勝手に付いて行くんです。私がどこを歩こうとあなたには関係ないでしょう?」と、こともなげに言われてしまった。
「カズヒロ、今日はお前、お姉さんと事務所で待っていろ。見回りは俺だけで行く」
ハルはカズヒロにそう言ったが
「嫌です。ここで姉さんにずっと説得されるなんて冗談じゃない。それなら俺、またトイレにこもります」と仏頂面をする。
それはどんな脅しなんだよ。と、ハルは思ったが、根が素直なカズヒロの事だから、姉に色々言われては自分の意にそわない返事を引き出されそうで脅えているのだろうと合点が行き、無理強いはできない。
もうこうなれば半ばヤケだ。
「分かりました。お姉さんも付いて来て下さって結構です。ただし、絶対に俺達から離れないでくださいよ」
しぶしぶハルはそう言った。
奇妙な三人連れの見回りは、事の他目立ってしまった。
外を回って歩くだけでもやたらと目立つ取り合わせだが、店を回ればさらに目立った。
ヒロ子を連れて、店の中まで入るのは気が引けたが、見回りが必要になるような場所の、夜の繁華街の路地裏で、半人前のカズヒロだけでは心もとないし、ましてやヒロ子だけ外に待たせる訳にもいかない。
ハルはなまじ顔が通っているだけに、女連れ、と言うだけでも好奇の目にさらされる。おまけに、気の荒い男ばかりの飲み屋に行けばヒロ子に視線が集まって、何事かが起きないかと気をもむし、逆にホステスのいる店に行けば、ヒロ子の軽蔑的な視線に二人ともさらされる。実にバツが悪い。
おまけに三人で歩いている時は、カズヒロとヒロ子の板挟みだ。
ハルはため息をつきながらも、何とか見回りを終える。
「これでお分かりになったでしょう? こんなところ、女性が歩いて回る場所じゃありません。二度と付いて歩くなんて言わないでください」
ハルはヒロ子に言った。もうほとんど懇願だった。
「ええ、もっといえばカズヒロに歩かせたい場所でもないですね。カズヒロ、さっさと足を洗いなさい。あんたはそのカッとなる性格さえ直せば、ちゃんと地道にやれるんだから」
ヒロ子はハルをほとんど無視するようにして、カズヒロに言った。
「俺はここをやめない。足を洗う気もない。これ以上言うことはない」
カズヒロはそう言ったきり、口をつぐむ。うかつに口を開けば丸めこまれると思っているらしい。
「いいえ、絶対に足を洗ってもらう。そのうち怖い思いをして、逃げたくなるに決まってるんだから。その時になって大怪我したりでもしたらどうするの? 私は死んだ両親に誓ったんだから。あんたを一生見届けるって」
ヒロ子はカズヒロを睨んでいるが、カズヒロは口を開こうとしない。目もそむけたままだ。
「今日のところは帰るわ。あんたが足を洗う気になるまで、私はあきらめないからね」
そう言うと、ヒロ子はハルに形ばかりに頭を下げて帰っていった。
「おい……。ヒロ子さん、明日もまた付いてくる気じゃないだろうな?」ハルがうめく。
「多分そのつもりですよ」カズヒロは当然のように言う。
「冗談じゃないぞ。おい、お前本当に足を洗う気はないのか?」
「ある訳ないじゃないですか。ハルさんは俺を追い出したいんですか?」
カズヒロが非難の視線を向ける。
「そう言う訳じゃないが……。こんなに心配してくれる身内がありながら、なんでお前はこんな世界を選ぶんだ? あのお姉さんならお前の事をとことん面倒見るだろうに」
「だから余計にいやなんですよ。姉さんの事だ、俺にちょっとでも気になる事があれば、一生こうして大騒ぎするんだろう。自分の方こそさっさと嫁にでも行けばいいのに。このままじゃいかず後家になっちまう」
「お前がしっかりすれば、お姉さんも安心するんじゃないのか?」ハルもつい、説教する。
「分かってますよ。でも、それがなかなか旨く行かないからここに来たんじゃないですか。それに俺、本当にここが気に入ってるんです。今までで一番居心地がいい。今更ここを出て行ったって、ここの事ばかり思い出しちまいそうな気がする。だから俺はここを出ませんよ」
カズヒロは頑として言い張った。
結局次の日も、その次の日も、ヒロ子は二人について回り、街の繁華街ではパッと噂が立ってしまった。
どうやらヒロ子がカズヒロの姉らしいという事が広がると、今度はハルとヒロ子について、あれやこれやと憶測が飛び交い始める。これにはハルもカズヒロも参ってしまい、何とか見回りについてくるのはやめるようにと、二人がかりで説得したが、「カズヒロが足を洗うまでは」の一点張りで、まるで聞く耳を持たなかった。
ところが、そんな事を繰り返すうちに、とうとうヒロ子が目を付けられてしまった。
ハルが店の主人と話をしている間に、ヒロ子が車に連れ去られそうになった。カズヒロも必死で姉を守ろうとしたが、向こうは三人、こちらは一人。それでもハルが感づいて、慌てて戻ったのが幸いしてその場は事なきを得る事が出来た。ヒロ子もそれまでの気丈さが嘘のように、呆然としてしまっていた。やはり無理をしていたのだろう。
「もう、本当に頼みます。このままじゃ危険すぎる。俺達について歩くのはやめて下さい」
そう、ハルに言われて、さすがのヒロ子もぽろぽろと涙を流しながらうなずいた。
しかし、それでもヒロ子は華風組に通って来た。
夕暮れ時、自分の仕事帰りに事務所に来ては出がけのカズヒロに説得をし、ハルとカズヒロが帰るまで事務所でじっと待っていた。
そして二人が無事に帰るのを確認すると、カズヒロに
「早く足を洗うのよ」と言って、ハルに送られて帰っていく。そんな日々が続いていた。
組の者達はヒロ子を「夕暮れ時の君」と呼び始めた。何せ女っけのない世界で、組にいる女性はおかみさんと、中学生の組長の妹だけ。外に出てもほとんど店の女達としか口を聞く機会など無いものだから、ヒロ子の存在は目立つのだ。普段は遠巻きに見ながら、時折からかったり、ちょっかいを出したりして、楽しんでいた。
ヒロ子の方は一切かまうことはなかったが。
「あれほど怖い目に会っても懲りずに通ってくるんだから大したもんだ」
ハルはすっかり感心していた。
「こうなるとカズヒロの件は、単なる口実なんじゃないか?」アツシが考え深げに言った。
「口実?」
「弟の足を洗わせたいのも事実だろうが、あんな目にあってもここに足を運ぶとなると、他に目的があるんだろう」
「目的? どんな?」
「鈍いな。それとも解っていて俺にわざと言わせたいのか?」
アツシは意地の悪い視線を向ける。ハルはその視線をはぐらかした。
「図星だな。そうだよ、彼女、お前さんが目的なんだよ。最初の頃とは視線が違う。多分カズヒロもうすうす気づいているんだろう」
確かに最近、カズヒロは無口になりがちだ。ハルもカズヒロに話しかけにくくなっている。
「ハル、お前さんの方はどうなんだ? あれだけの美人で弟思いだ。悪い気はしないんじゃないか?」
そうだ。悪い気はしない。ハルだって最初から綺麗な人だと思っていた。だが……
「彼女はカズヒロの姉だ。しかも堅気で、この世界を快く思ってないんだ」
ハルはつい、ため息が出た。
「もし、彼女がお前に惚れてるなら、考えが変わるかもしれないぜ?」
「それならそれで厄介だ。俺は堅気の女を巻き込みたくない。ましてや彼女はカズヒロの姉だ。姉弟そろってこんな世界に引きずり込んでどうするんだ」
「姉弟そろってお前が守ってやるしかないだろう。もう彼女は、とっくに巻き込まれているんだよ。彼女の意思で、ここに通いだした時点で」アツシは確信を突いてきた。
もしかしたらそうかもしれない。しかし、まだ間に合うかもしれない。
「やっぱり堅気は堅気だよ。ヒロ子さんにはここに来るのをやめてもらう。カズヒロの件もあきらめてもらおう」ハルはそう言って、自分の言葉にうなずいた。
「ヒロ子さんに恨まれそうだな」
「そんなもんさ」
そうだ。今なら恨まれてもお互い傷は浅くて済むだろう。
「やっぱりお前は損な役回りだな」アツシはぽつりと言った。