夕陽の中の女
その日の夕方、ハルは近くの床屋から組に帰る途中でその女性を見かけた。
綺麗な人だな。
ハルでなくてもたいていの人はその時の女性の姿を見れば、そんな感想を持ったに違いない。
そこには色白で、きゃしゃな女性が立っていた。
道に迷っているのだろうか? 小さなメモ書きを片手に、周囲をきょろきょろと見回している。白いブラウスに地味なスカート姿で、目につく装飾品は身につけていない。年の頃なら二十代半ばぐらいだろう。
黒くつややかな髪が肩のあたりで小ざっぱりと切りそろえられ、派手さはないが清潔な印象を与えている。鼻筋が通っているので横顔が美しい。それに決して大きくはない目だが、力があって印象的だ。
夕映えの中に立っているので、頬が少し色づいて見えて、それも彼女を美しく見せている。
それほどしげしげと見ていたつもりはなかったが、女性はハルの視線に気づいたのか、たまたまこちらを向いたのか、ハルの視線を捕らえると、こちらに近付いてきた。
「すいません。道をお聞きしたいんですけど」女性が若々しい声で尋ねて来た。
「この辺りに華風組と言う事務所はありませんか?」
ハルは意外な言葉に正直驚いた。この美人がうちの組になんの用があるんだ?
「うちの組に御用があるんですか?」つい、聞き返してしまう。
「あなた、華風組の方なんですか?」
女性は一瞬、意外そうな顔をして、その後視線がやや冷たく変わる。ハルは内心がっかりしたが、良くあることなので気にする風も見せずに
「そうです。事務所は表に回ってすぐです。俺も帰る所なんで、案内しますよ。こっちです」そう言って先だって歩きだす。女性もその後に着いてきた。
「うちに何の御用ですか?」歩きながら女性に尋ねた。
「弟を連れて帰るために来ました」
「弟さん?」
「ええ、カズヒロと言います。もう半年もそちらにお世話になっているそうです」
「カズヒロの……。お姉さんがいらしたとは知らなかったな」
そう言えば目の印象が随分違うので、パッと見た感じはあまり似ていないが、カズヒロも鼻筋は通っているし、口元辺りは結構似ている。なるほどこの人はカズヒロの姉に違いなさそうだ。
事務所の前に着くとハルは
「カズヒロを呼んできましょうか?」と聞く。
彼女が事務所に入るのをためらうだろうと思ったし、こんな美人が急に来れば、組が蜂の巣をつついた騒ぎになりそうだとも思ったのだ。
「いえ、カズヒロはきっと出てこないでしょう。出来れば組長さんにお会いしたいんですけど」
カズヒロの姉は顔に緊張を張りつけながらも、きっぱりと言った。
「それはちょっと……。まずは弟さんに会ってからの方がいいんじゃないんですか?」
「ダメです。あの子は私の言う事なんか聞きません。私が直接、上の人に会って話をします」
カズヒロの姉も譲らない。
「しかし、いきなり組長は会ってくれませんよ。実は俺が直接カズヒロの面倒を見ているんです。俺がカズヒロを呼んできますよ。まずは姉弟で話し合われたらどうでしょう?」
「あなたがカズヒロの面倒を見てるんですか?」
カズヒロの姉の視線がますます険しくなる。
「じゃあ、あなたからもカズヒロと組長さんに言ってやってください。カズヒロに足を洗わせてやって欲しいと」
「カズヒロにその意思はあるんですか?」
「あの子が私の言う事なんて聞かないから、私はこうしてここまで来たんです。やっぱりあなたじゃ話になりそうもないわ。組長さんに合わせて下さい」
カズヒロの姉はハルを押しのけて、事務所の中に入ってしまうと
「すいません。私はここにお世話になっているカズヒロの姉です。是非、組長さんに合わせて下さい」
と大声で叫んだ。
何事かと組員達が彼女の方に振り返る。ハルとカズヒロの姉はその場で押し問答になってしまっていた。
「ハルがえらい美人を連れて来たって本当か?」
そこにアツシがからかいながら顔を出してきた。
「アツシ、とにかくカズヒロを連れて来てくれ。本人が説明してくれなけりゃ、どうにもならない」
ハルがアツシに頼むと、アツシは面白そうにニヤニヤしながらもカズヒロを呼びに行く。
「とにかく俺も、お姉さんの事は全く知らなかったんです。詳しい話をカズヒロから聞かないと、いきなり組長に話しなんて出来ませんよ」
ハルは何とかカズヒロの姉に落ち着いてもらおうとした。
「あの子の意思なんて考えていたら、足を洗わせるなんて絶対できないわ。私はどうしてもあの子を連れ帰るためにここに来たんです。いくらあの子でも組長さんがここに置けないと言えば、あきらめて足を洗うでしょう? だから私は組長さんと話がしたいんです!」
カズヒロの姉は今にも奥まで上がりこみそうな勢いだ。堅気の女性に荒っぽい真似をする訳にもいかず、ハルは途方に暮れていた。
やっとアツシが戻ってきたかと思うと
「いや、参った。カズヒロの奴、どうしてもお姉さんに会う気はないらしい。とうとうトイレに鍵をかけて閉じこもっちまった」アツシはお手上げだという表情をして言う。
トイレ……。もう少しましな所はないのか。いや、そんな事を気にしている場合じゃない。
カズヒロの姉はますます顔を怒りで赤くしている。彼女がまた、何事かを叫ぼうと口を開きかけた所に、奥からおかみさんが姿を現した。
「失礼します。私がここの組長の妻、静江です。あなたがカズヒロのお姉さんですか?」
おかみさんが凛とした声でカズヒロの姉に尋ねた。
「初めまして。姉のヒロ子です。弟がお世話になっています」
ようやくヒロ子も自分を抑え、自己紹介をした。
「申し訳ありませんが、ここは仕事中の事務所です。ここで騒がれても困りますので、とにかく奥に入って下さい」
「組長さんに会わせていただけるんですか?」
「そうするしかないでしょう。ただ、今お聞きの通り、カズヒロ自身はあなたにお会いしたくないそうです。私たちとしてもカズヒロの意思を無視する訳にも行きません」
「足は洗わせられないとおっしゃるんですか?」ヒロ子は静江を睨んで聞いた。
「本人の意思が固い以上、難しいと思いますね」
静江の真剣な物言いに、ヒロ子の表情が沈んだ。ヒロ子は視線をアツシとハルに向けると
「カズヒロはどうしても私に会いたくないと言ってるんですか?」と聞いてきた。
アツシがうなずく。
ヒロ子は深くため息をつくと、静江の方に向き直り
「カズヒロに会わせて下さい」と、今度は哀願するように言った。
ハルは困った顔をし、アツシはトイレの方に目をやってため息をついた。
「とにかく奥へ」
静江はそう言って、ヒロ子を奥にある自分達の部屋の方へと案内した。
「カズヒロ! いい加減にしろ」ハルはトイレにこもったカズヒロに向かって怒鳴りつけた。
「そんな事をしていると本当に組長から叩き出されるぞ。子供じみた真似も大概にしろ」
「ハルさんはうちの姉さんがどれだけしつこいか知らないから……」
「それでも出てこい。俺や組長がお前の意思を無視するような真似をすると思うのか? お前が本気なら俺達がお前の姉さんを説得してやる。こんなところに閉じこもっているようじゃ、お前の気概を疑うぞ」
ハルはそれだけ言うと、カズヒロが出て来るのを待った。
しばらくすると、ようやく観念したのかカズヒロはトイレの戸を開けて出て来た。
「姉さんは?」
「組長達の自室で話しあってるよ。お前もいって来い。大丈夫だ、組長もお前の意思が固い事は分かってる。お前を無視するような真似はしない」ハルは請け負った。
「参った」ハルは頭を抱えた。
「家族が身内を心配して、足を洗わせようとするのは良くあることだが……。これだけの騒ぎになったのは初めてだ」
「あの美人、はかなげな様子に見えたが、かなり肝の据わった女だったな。いや、いい目の保養になった」
アツシは楽しげに言う。まあ、組員のたいていはそう思っているのだろうが。
「肉親の事だから必死なんだろう。何せ二人っきりの姉と弟だ。組長も帰ってもらうのに一苦労していたらしい。これはしばらく大変だぞ」
「美人がまた来るんなら、俺は大歓迎だね。カズヒロには当分粘ってもらいたいよ。お前は損だなあ。あんな美人の恨まれ役で」
「人の事だと思って」
ヒロ子が帰り際にものすごい顔でハルを睨むのをアツシは見ていたのだ。
ヒロ子はカズヒロの気が変われば連れ戻してもかまわないという組長の言葉でしぶしぶ今日のところは帰ったが、「カズヒロの気が変わるまで、私はあきらめません」と宣言していた。カズヒロが折れるまでここに通い詰めるつもりらしい。これではハルは、しばらく二人の板挟みだ。
全く損な役回りだ。ハルは心の中で誰にともなく悪態をついた。