幸福
その瞬間は、唐突に訪れた。ハルは聡次郎と富士子を送って行った帰りに、二人の目の前で襲われた。
相手の殺気を感じたとたん、心のどこかで覚悟した。
こいつは俺より上だ。
聡次郎が駆け付ける気配を感じながらも、間に合わないだろうと思った。
やはり相手は早かった。分かってはいたが避けきれなかった。
聡次郎の姿が視界に入る。服のどこかをつかんで止める。自分の人生は終わる。こいつは巻き込んじゃいけない。
そうだ、こいつの人生はまだこれからだ。俺やカズヒロの分まで生き抜いてくれるだろう。きっと幸せになる。
俺には手の届かなかった物を、こいつは手に入れている。愛すべきもの。守るべきもの。それを手に入れるにふさわしい心を、こいつは持っているんだ。羨ましい奴だ。
そんな顔するなよ。俺は今、誇らしいんだ。お前が俺の弟子だった事が。
お前は俺を見事に追い越してくれた。カズヒロに、手渡してやれなかった幸せを、お前はつかんでくれた。
カズヒロに、会えるかな?
会ったらお前には詫びなくちゃいけないな。やっと謝る事が出来るんだ。お前は許してくれるだろうか?
これから希望を持って生きられたはずの人生を奪った俺を許してくれるかい?
ヒロ子さんは俺を憎むのは難しいそうだ。もうこれできっと許してくれるんだろう。
心穏やかに、幸せに、暮らしてくれるに違いない。
黄金色に輝く夕映えの中で、ヒロ子さんはほほ笑んでいる。ああ、この横顔が美しいんだ。
こんな人と出会えたなんて、俺の人生は幸せだった。
あなたも幸せでいて下さい。
この世の誰よりも……
こうしてハルは、この世を去っていった。
ハルは斬り殺されてしまった。カズヒロの悲劇から、五年の月日が流れていた。華風組は、またしても組員を失ってしまった。
聡次郎はハルの仇を討とうとしたが、心の芯にまで刻まれたハルの教えは重く、とうとう相手を刺し殺す事は出来なかった。おそらくハルも、それは望まなかったに違いない。
ハルの葬儀が終わってしばらくしたある午後、華風組に一本の電話が入った。アツシを呼びだす電話だった。
「もしもし?」電話に出たアツシの向こうで、誰かが息をのむ気配がした。誰だ?
「お久しぶりです……」
声を聞いたアツシの方が今度は息をのんだ。この声はヒロ子だ。
懐かしさとともに、苦い思いがこみ上げる。彼女は以前アツシがためらったばかりに、ハルに会うこともできず、伝えたいことも言えずに街を離れてしまっている。
「春治さんの事、ニュースで見ました」
決して大きな扱いではなかったが、ハルの事は殺人事件として取り上げられていた。
「そうですか……。あいつの事は本当に残念です。もう葬儀も終わってしまいました。電話していただけるとは思ってもみませんでした。ありがとうございます」
すでにハルの葬儀から二週間近くの日が経っていた。
「いいえ。私も本当はお線香の一本もあげに行きたいんですけど……。そちらには伺う事が出来ないんです」
そうだ。彼女はもう完全に堅気なんだ。こんなところに顔は出せまい。
「いえ、電話をいただけただけでも十分です。ハルの奴も喜んでいるでしょう」
「あの……。とても申し訳ないんですけど、出来ればアツシさんにこちらにご足労を願えないでしょうか?」
ヒロ子さんが俺に会いたい? 何故だ?
「電話ではちょっと……。来ていただければ分かります。お話したい事があるんです」
彼女が俺に話したい事は、当然ハルの事だろう。あの時俺は彼女をハルに会わせる事が出来なかった。
そしてもう、彼女は永久にハルに会うことはできなくなってしまった。
彼女に話があるのなら、ハルに代わってでも俺が聞き遂げるのが彼女に対する礼儀なのかもしれない。
「分かりました。お伺いさせていただきます」
組のある街から、電車で一時間ちょっと。アツシはヒロ子の住む街に来ていた。平和な新興住宅地のある、小さな駅にアツシは初めて降りた。駅前のロータリーを抜けると、緑地帯と公園が整備されている。その公園がヒロ子との待ち合わせ場所だった。
噴水の前の目立つ場所にヒロ子はいた。五年の歳月が流れてはいたが、ヒロ子はそれほど変わってはいなかった。それでもヒロ子の横には幼い少女がいた。やはり月日は流れている。
「わざわざ来ていただいて申し訳ありません」ヒロ子が頭を下げた。
「お子さんがいらっしゃるんですね。これじゃあ、組には来れない訳だ」
アツシは少女の顔を見た。
色白なのはヒロ子と同じだ。鼻筋も通っている。カズヒロも鼻筋だけは通っていたっけ。母親似で将来美人になりそうだ。
「ご挨拶は?」ヒロ子に促されて少女は元気よく挨拶をした。
「こんにちは」そして笑顔を見せる。
その瞬間、アツシは目を見張った。
ハルだ!
そこにハルの笑顔があった。いや、この子は女の子だ。顔立ちそのものはヒロ子によく似ている。しかし……
この目、この笑い方。人をホッとさせる笑顔。これはまぎれもなくハルの笑顔だ。
あまりの事に、アツシは口がきけなくなった。少女は遊具で遊びたいと言い出した。あまり離れないでねとヒロ子が母親の笑顔で言う。はあいという返事よりも先に少女は駆け出してしまった。
「この子の事を、春治さんに報告してほしいんです。今日はそのためにお呼びしたんです」
口がきけなくなってしまったアツシにヒロ子は語りかけた。
ヒロ子が街を出て行った訳。出て行く時にハルと会う事を迷った訳。ハルに伝えたい事があるといいながら、飲み込んだ言葉……
だから急に拒んでいた補償を受ける気になったのか。一生恨むのが難しくなったというのは、こういう事だったんだ。
「ハルとはほとんど会っていなかったんですよね? その……ゆっくり会ったのは一度だけで」
どっち道、礼は欠いているが言葉を選んだ。
「そうです。だから春治さんは全く知りません」ヒロ子ははっきりと断言した。
信じがたいがあの笑顔を見せられたら、疑いようがない。
「あなたがこんなに強い人とは思いませんでした」アツシはまだ呆然としていた。
「強くなんかありませんよ。何度も迷いました。街を出る前は勿論、出た後だって何度も連絡しようかと思いました。知らせなくていいんだろうか? それは春治さんにもひどい事なんじゃないかって、何度も考えました。あの子が生まれた時も迷ったぐらいですから」
「ハルなら必ず産ませたでしょうに……」
「そして悩み、苦しんだでしょうね。あの人が足を洗えないのは分かっていました。それでも春治さんは苦しんだでしょう。あの時十分すぎるほど私たちは苦しんでいたのに」
初めてヒロ子の顔が曇った。
「私はカズヒロを失う代わりに、この子を授かったんですから」
「私は決めたんです。あの子は一生堅気で暮らさせると。もう、私はあの街へはいきません。組にも、春治さんのお墓にも近付きません。でも、カズヒロも春治さんも、本当に素晴らしい人だった事は伝えます。それだけで十分です。生前の春治さんに伝えなかったのは悔いが残りますけど、これでよかったんだと思っています」
ヒロ子はにっこりと笑う。
「何だか不思議ですね。あなたに会っていると、今でもあの事務所に行けば、カズヒロや春治さんに会えるような気がするんです……」
「こんなところまでお呼び立てして申し訳ありませんでした。でも、春治さんの仏前には伝えて下さい。あなたの命はちゃんとつながったんだと。そして私たちは本当に幸せだと」
ヒロ子が頭を下げて少女の元へと向かう。そう言えば子供の名前を聞いていない。いや、聞かない方がいいのか? もう二度と会う事はない親子だ。
ハル、お前はヒロ子さんにとんでもない事をして逝ったのか? それとも一生分の幸福を彼女に与えたのか?
だってヒロ子さんはこれまでにないほど幸せそうな顔をしている。もう俺には分からなくなったよ。
アツシは少女の顔を見る。よく笑う子だ。ヒロ子はこの笑顔を支えにして生きているのだろう。ハルにそっくりなこの笑顔を見るために、日々を暮らしているのだろう。
あの子が笑顔でいる限り、彼女は幸せなのだろうか……?
ヒロ子は少女の手をつなぎ、アツシに振り返った。深々と頭を下げて少女と公園を後にする。見事な夕暮れ空の下、幸せそうな親子が手をつなぎ、家路へと向かって行くのをアツシはただ、見送っていた。
完




