橋本博一
犯人を捕まえるため、動き出した遠藤学と西野昭。その一方で、トイレではまた一つの物語がうまれていた、という話です。
橋本博一は困窮していた。未だかつてない腹痛に悩まされ。
腹痛は毎朝のことである。もともと胃腸は弱い。日本国民の中でも屈指の弱さを誇るであろう。電車の振動がそうさせるのか、乗っているうちに徐々に腸が活性化されていき、降りる頃には腹部に鈍痛を抱える羽目になる、それ故に、職場に到着してまず、トイレに行くことが彼の日課となっていた。
しかし、今日は、腹痛のレベルが違う。四駅も前からすでに痛みを感じ始め、席を立つこともままならぬ、といった状況にまで追い込まれた。脂汗が額から流れる。それを拭う力を控え、腹部の方へと全精力を費やし、漸く、目的の駅まで辿り着いた。それ以前の駅で降りられなかったのは、遅刻ギリギリの時間だったからだ。
博一はピカピカの新入社員。駅から程近い、大型のデパート内でスーツを販売している。今日はデパート内のイベントがあるということで、早朝から出勤し、準備を手伝わなければならなかった。
今は所謂、試用期間という日本伝統の制度のもと、遅刻できない身分に置かれている。更に付け加えるならば、博一はすでに腹痛で、途中の駅で降りてしまったことにより、一度遅刻している。上司にはこっぴどく叱られた。ちなみにそのときは、腹痛で遅刻しました、とも言えず、寝坊しました、とまさに目くそ鼻くそな理由を述べた。どちらを述べた方が恥ずかしくないかということを考えたとき、彼の価値判断では寝坊の方がまだいいという結果が出たからだ。
(今降りたら死んでしまうかもしれない、色んな意味で。)
そんな博一の焦燥感とは別に、電車は緩やかに速度を落とし、停車していく。
(あのときの遅刻を、今日までとって置けば良かった。)
そんな、どうしようもないことを考えながら、今残っているありったけの力を振り絞って、電車を降りた。
他の乗客に追い越されながら、時計を見る。そして、腹痛を堪えながらゆっくりと歩いていくか、すっきりしてから走っていくか、瞬時に頭の中で計算していた。
そうした計算も、あまりの腹痛の前に吹き飛んでしまう。
(もう行くしかない!)
果てしなく続くと思われる階段を一段、一段ゆっくりと上っていった。もはや頭の中には、トイレが空いているかどうかなど、考える余地もなかった。
男子トイレの中自体は比較的空いていた。中に入るなり、急に早足になって、目的地を目指す。一番手前には故障中の張り紙がしてあった。それを諦め、さっと隣を見る。扉は閉まっていて、鍵もかかっているようだ。
(最悪、和式でもいい!)
彼は、和式の危険性を熟知していた。目的達成の瞬間が一番危険なのだ。しかし、今はそうも言っていられない。さらに隣を見てみる。
使用中!
圧倒的な絶望感が彼を襲う。八百万の神々が自分を見捨てた、そういった喪失感にも包まれる。
けれども、腹痛は、博一の気持ちとは裏腹に容赦なく襲い掛かってくる。彼は、絶望に浸る訳にもいかず、これから、革命的な作戦を立てねばならなかった。
(今から走って、急いで行くか…いや!それは危険すぎる!冷静になれ、何かあるはずだ。何か手立てが!)
もう一度、辺りを見回してみる。案外、答えは身近にあった。彼のモラルがそれを許すか、許さないか、それが問題だった。義を貫いて憤死するのか、それとも世間に非難されようとも保全を選ぶか。
その逡巡も長くは続かなかった。事は一刻を争っている。彼は真っ直ぐ、「故障中」の張り紙がしてある方へと近づき、思い切って扉を開け、中へと入った。
これから自分の身に起こる不幸も知らずに、自らの欲望のままに、彼の望まない死へと繋がる個室へ足を踏み入れた。
ひと段落して腹痛は落ち着きを見せ始めたものの、危険からは脱していない。まだ、腹部には軽い鈍痛が残っている。このわずかに感じる鈍痛がいかに危険であるかも登は知っていた。この状況で立ち上がれば、到着するまでにもう一波くることは明白であった。そして、その一撃になす術もないことも明らかだった。
もう一度、時計を見てみる。もはやどう考えても間に合わない時間になっていた。
(しょうがない、今日はとことんまで付き合うか…)
そう腹を括って、腹の一物と最後まで戦い続けることを決心した。
と、博一が断腸の思いで新たな決意を打ち立てたとき、外でなにやら気配がする。隣に入っていた人物はすでに出ているのだが、もっと近いところ、扉の向こうでごそごそしている人影を感じた。
(変な奴だな。俺は早く出たいってのに、これじゃあ出しにくいじゃないか)
博一のナイーブな胃腸は、外の気配を敏感に感じ、急に活動を休止してしまった。外に出ることを怯え、中に閉じこもってしまったようだ。博一としては非常に困ったことになってしまった。そして、その人影はやがて、隣に入ると、バタンと扉を閉めた。
隣からは動く全く気配がない。中でじっとしているようだった。そうした気味の悪さを感じ、ますます腹の方は動かなくなる。
(うっわ、変な奴!さっさと出たいんだけどな、こいつが言うこと聞いてくれん!)
段々、腹痛よりも焦りの方が強くなってきた。腹部に鈍痛が残るものの、それを我慢して立ち上がろうとした瞬間、あろうことか隣に入った人物が話しかけてきた。
「どうだ、気分は?」
(いいわけがないだろ!やばい奴だ。早く出よう!)
そう思って、尻を拭く。ガサゴソという音ともに笑い声のようなものが聞こえたような気がした。
「いいのか?もう少し考えた方がいいと思うがね。どうせ、お前の命運は決まっているんだ。電話でもしておいた方がいいんじゃないか?お前の大事な人にね」
(うーん、まあ確かに職場には電話しといた方がいいか。でもトイレの中だしな。まあ、出てからでいいだろ)
「なあ、俺が恐いか?憎いか?楽しいなあ。お前が苦しむ姿を想像するのは。顔が見えないのが残念だよ。今すぐにでも扉をこじ開けて、その面を拝みたいものだがな」
(変態だ!変態だ!変態だ!こんな奴、ほんとにいるんだなあ。こりゃあ、早く出ないと。)
そう思って水を流した。しかし、登に、「まだだぞ!」と警鐘を鳴らすかのように腹痛がまたひどくなってきた。
(うぐ、なんでまた。今出たら確実にヤバイ。でも隣の奴もかなりヤバイ。どうすりゃいいんだ、俺は!)
「まあ、そう急ぐな。俺もお前と一緒についてってやるから。俺はもうこの世に思い残すことはない。だから、もう少し楽しませてくれよ!」
(ヤバイ、ヤバイ、ヤバイ。)
「さあ、もっと苦しめ、苦しめ!」
(ヤバイ、ヤバイ、ヤバイ。)
「楽しいなあ、楽しいなあ!」
(ヤバイ、ヤバイ、ヤバイ。)
「ククっ、爆発するとき、お前はどんな声で叫ぶんだろうなあ」
(ヤバイ、ヤバイ、ヤバイ!)
「爆発すれば、お前の体は間違いなく吹き飛ぶ」
(ん?)
「それを確認できないのは少々残念だが、吹き飛ぶ瞬間を間近で見れるんだ。そちらの方がよっぽど魅力的だ!」
(んん?)
博一は自分の置かれた状況が未だによく掴めずにいたが、自分の身に少々マズイことが起きていることは分かった。
(爆発?体が吹き飛ぶ?どういうことだ?)
「このことは間違いなくニュースになる。そうすれば、お前の息子を開放する手はずになっている。安心しろ」
(何っ!)
漸く、相手が恐ろしい人違いをしていることと、自分がとんでもないことに巻き込まれていることを理解した。博一は子供がいるどころか独身である。本当に勘違いで、何かを爆発でもされるならとんでもないことだ。
疑惑を抱きながら、おそるおそる話しかけてみる。
「あのう、申し訳ないのですが、あなた、人違いをされているんじゃないでしょうか?」
確かに、今、博一が置かれている状況としては相当に阿呆な質問である。相手は突然笑い出した。
「とうとう、頭がおかしくなったか!まあそれも仕方ない、最後まで付き合ってやるよ。お前の気が狂ってもな!」
(全然分かってない、この人!おかしくなっちゃって相手の声も分かんなくなったのか。そんなこと考えてる場合じゃない、一刻も早く、間違ってることを理解してもらわないと。)
「いえ、そのう、あなたが殺そうというか、爆発させようとしている人のお名前は何と言うんですかね。僕は橋本博一という者でして、あなたとは全く関係ないと思うのですが…」
「どういうことだ?」
「とにかく、あなたは人違いをされているのかと…それで、爆発というのはどういうことなんでしょうか?」
隣の人物は動揺しているようだった。
「お前は西野昭じゃないのか?」
「ええ、違います」
「ちょっと待ってろ!今確認しに行くから。扉を開けろ」
「えっ、でも、今ズボンを脱いでいる状態なんですけでも…」
「いいから開けろ!待て、絶対に立つなよ。この爆弾は、席を立つと爆発するようになっているんだ」
「あ、はい。でも、ほんとにズボン、履いてないんです。いや、ズボンどころかパンツも」
「少しだけでいいから!顔だけでも出すようにしろ!」
隣から扉の開く音がした。その音を聞き、便座に尻を付けたまま、右手を伸ばし鍵を開ける。そして、急に全開にならないよう、そのままの姿勢で戸を押さえた。
「いいか、開けるぞ」
「はい。でもちょっと待ってください」
なんとか前が隠れるように左手で押さえ、ゆっくりと右手の力を抜いた。
「誰だ、お前は!」
開いたドアの隙間からは、殺気に満ちた目が覗いていた。さらにその隙間からは、いぶかしげにこちらを見ている乗客がいる。トイレで会話しているという状況を他の乗客たちはどんな気持ちで聞いていたのだろうか、そう思うと、急に恥ずかしくなってきた。その一方で、相手は信じられない、といった様子で立ち尽くしている。
「だから言ったでしょう。扉、閉めてください。その、気まずいんで」
そう言ってグイっと扉を押し、鍵をかける。相手も、どうするわけでもなく、定位置に戻ったようだ。
「なんで、そこに入った。張り紙がしてあっただろう!」
「いえ、その、我慢できなくて」
「お前には常識がないのか!」
(爆弾で人を吹っ飛ばそうとした奴にそんなこと言われたくない…)
「で、僕はどうすればいいんでしょう?」
「知るかっ」
誰かを爆死させようとした犯人としては随分と無責任な発言である。博一は自分の身に起きた人生最大の不幸を呪いながら、これからどうするか考えなければならなかった。
「あのですね、僕からの提案なんですけど、いえ、もちろん却下されても構いませんよ。その、もう計画とやらは失敗したわけですし、もう辞めにしたらいかがでしょうか?」
「なにっ、どうしろって言うんだ?」
「いやあ、あなたはもうこの場を静かに立ち去るとか…」
「そうすればお前は助けを呼ぶだろう。警察沙汰になる」
「まあ、それはそうですけど」
「だったら、俺は今すぐ爆弾を爆発させて、死ぬ。こいつはいつでも爆発することができるんだ。警察に追われて、ブタ箱入りになるんならそっちの方がマシだ」
博一は必死に相手をなだめようとする。
「ちょっと待ってください。ですから、この爆弾をあなたが解除して、その上で、ここから去る、そういうことです。私は誰にもこのことを話しません。それで一件落着じゃないですか?」
「せっかくの提案だがな、その爆弾を解除するには、便座の裏を剥がさないといけないんだ。だから、お前が座っている限り無理だ」
頭を掻き毟りたくなる衝動を抑えながら、何とか自分の助かる方策を思いつこうと頭を捻る。
「じゃあ、これはどうです、僕が便座を手で抑えながら立ち上がって、これ、外れますよね。そしてそのまま外に出ます…いや、駄目だ。こんな状態じゃあ。あっそうだ、その状態のまま、あなたが解除するというのはどうです?」
「それも駄目だな。一度起動すれば、少しの体重の変化で爆発する。そんな、人を殺すのに解除しやすいような爆弾を作るか?」
「あ、いや、そうですね。納得です」
方策も尽きた、耐え難い沈黙。お互い、どうすればいいのか分からない、膠着状態に陥った。その沈黙が、博一にある考えを思い浮かばせた。
「あの、僕がここにいるということはですね、本来、ここに座るべきだった人はどこにいるんですかね?」
「そういえば、そうだな」
「でしょ!とりあえず、その方に連絡を取られたらよろしいじゃないかと思いますよ。連絡先はご存知ですか?」
「ああ、知っている。確かに、そうするべきだな」
「ですから、連絡を取られてから、これからのことを考えた方がいいかと」
相手の矛先が自分から離れつつあることに、博一は少しの罪悪感とともに確かな安堵感を感じていた。
「あなたの目的は復讐なわけでしょう。復讐も果たせないのに死ぬなんておかしいんじゃないんですか。こんな爆弾まで用意して。馬鹿馬鹿しいですよ」
彼自身は気付いていないが、少々調子に乗りすぎた。相手の思考が予想外のところへ飛んでしまっていることにも気付いていなかった。
「そうだな、あっちが約束を破ったわけだから、今から仲間に連絡して子供を殺す」
博一は、相手の視線を自分からそらすという、自分の考えていたのとは異なった方向へ進んでしまったことに慌てた。さすがに人質であろう子供が、自分の発言で殺されるのは勘弁して欲しかった。
「ちょっと、ちょっと、ちょっと待ってください。そういうわけじゃないんです。ほら、もし、約束を破っていたとしても、相手にも事情があったわけですから、話を聞かないと何も始まらないと思うんですよ」
もはや、博一には相手が何を考えているのか分らなくなってきた。数年分のストレスを一気に溜め込んだような気がした。
「相手の出方次第か。よし、今から西野に電話してくる。お前はここで待っていろ。お前をどうするかはそれから考える」
漸く、落ち着くことができ、ため息をつくことができた。
「ええ、ここで待っています。まあ予定とは大分食い違ってしまったかもしれませんがね、これからですよ、あなたの復讐が成就するか否かはね」
博一が余計な一言を言い終わるや否や、再び扉の開く音がした。足音は確実に出口の方へと向かっている。やがて、その足音もしなくなった。
一人取り残された博一は、この現状をいかに切り抜けるか、静かに考え始めた。
後一人分と、簡単なエピローグ。ようやく終わりが見えてきました。