表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/3

西野昭

ようやく前半部分終了です。

 西野昭は指示通りに、新宿行きのキップを買い、駅構内にあるトイレへと向かった。

 未だに犯人の意図は分からない。それでも、息子の命がかかっているから、指示通りに動かなければならなかった。

 必ず、犯人はこの駅のどこかにいて、自分のことを見ているのだ。そう思って、辺りをきょろきょろと見渡してみる。おそらく、今の西野昭ほど精神的に追い込まれている人間は駅校内にいないだろう。乗客たちは、自らの目的に従って流れるように西野の前を通り過ぎていく。

 日曜の朝というのはいつもとは様子が異なっている。会社員然とした人間は鳴りをひそめ、多種多様な人間が、早朝だというのに駅の中を行き交っている。

 終電を逃し、朝までどこかで時間を潰し、漸く帰宅の途に着く若者もいれば、ホストらしい、髪を染めたスーツ姿の者もいる。他には、登山に行くのだろうか、大きなリュックを背負い、ハンチング帽をかぶった者もいる。

 もし、今日のような事情がなく、再び日曜の朝に駅を訪れることがあれば、ゆっくりと人間観察を行うことができるであろう。ひとまず、今、昭にとって最優先事項は、駅内のトイレに向かうことだ。そうすればいつかは、人生に余裕を感じながら人間観察を楽しむことができるかもしれない。そのいつかが、いつになるのか分からないにしても。




 昨日、会社から帰ってくるなり、おそらく大多数の人間が遭遇することのない、ごく一部の人間が体験する稀な事件に昭は直面することになった。

 家の中に入ると、妻・美恵子が血相を変えて飛び出してきた。

「あなた、昭一が、誘拐されたの!」

 取り乱している妻をなだめながら、詳しく事情を聞こうとする。しかし、昭自身が動揺してしまっているから、何が何だか分からない。持っていた鞄をその場に放り出し、靴も投げ出すように脱ぎ捨てて、妻に駆け寄る。

「ど、どういうことだ?昭一が誘拐されたって?お、落ち着いて話してくれないか。とりあえず落ち着こう、な、とりあえず」

 妻の肩を支えながらリビングへと向かった。妻をまずソファーに座らせ、自分も隣に座る。

「それで、一体どういうことなんだ?犯人から、な、何か連絡はあったのか?」

「え、ええ、一時間ぐらい前かしら。お宅の息子さんは預かった、心配するといけないからご連絡したって。もう一度、旦那が帰ってきてから電話するって。それから、警察には通報するな、もし、警察に通報すれば、子供の命はないと思え、俺はいつでも見張っているぞとも」

 誘拐犯の電話としては、テレビのサスペンスドラマのようなベタなものである。それにしても、「心配するといけないから」なんて随分とナメた犯人だと昭は感じた。

「それで、警察には通報したのか?」

 美恵子は今にも泣き出しそうに首を振る。

「いいえ、あなたが帰ってきてから、そのことも考えようと思って。私、もう…」

「なんで、早く伝えてくれなかったんだ!電話でもなんでもできたろう!いつ、電話もかかってくるかも分からないし、こうしている間にも昭一は…」

美恵子は、はっと今頃気付いたような顔をし、俯きながら小さく「ごめんなさい」と言う。

「だって、私もう、どうしていいか訳が分からなくなってしまって。事情が事情ですし、電話というのも」

 西野は手で顔を覆った。

「もういい!今はとにかく、犯人からの電話を待とう。全部それからだ」

 こうして西野夫妻は、犯人からの電話を待つことになったのだが、夫妻のやりとりを覗き見ているのか、電話は程なくしてかかってきた。夫妻は、シンクロナイズドスイミングのように、ほぼ同時に電話を見た。昭はゆっくりと電話に近づき、受話器を取った。

「もしもし、西野です」

「西野昭さんですね。お仕事お疲れ様です。今日も大変でしたか?傾きかけている会社を支えるのは大変でしょう?」

 こういうとき、犯人というのは変声機を使って、ヘリウムガスを吸ったような変な声になるもんだと昭は勝手に思い込んでいたが、相手はそのようなことはしていないらしい。普通の、昭と同年代ぐらいのおじさんの声だ。しかし、その声に聞き覚えがなかった。

「そんなことはどうでもいい!息子は、昭一は大丈夫なのか?」

「ええ、無事ですよ。今のところはね。あなた方が私の指示通りにしてくれれば、何も危害は加えません。かわいいですねえ。遅く生まれたお子さんでしょう。それならなおさらかわいい。大丈夫ですよ、私は約束を守る人間ですから。だから、あなたも約束を守ってください。私はいつでもあなたを見ています。あなたに近いところでね」

 確かに、昭一は、昭が四十を過ぎて生まれた子供である。陳腐な表現を用いれば、目に入れたって痛くないほどかわいい。犯人の丁寧な口調に神経を逆撫でされても、ぐっと怒りを抑えつける。

「それで、何が目的なんだ?金か?」

「お金なんていりませんよ?お金なんて要求されても困るでしょう。会社をどうにかやりくりしていくので精一杯なんだから。なあに、私の言うとおりに動いてくれればいいんですよ」

 内心、息子の安否とは別に、少しほっとしたのも事実である。昭の会社は、あくどい手を全く使わなかったといえなくはないものの、これまで順調に事業を展開してきた。しかし、昨今の不況の煽りを受けてすっかり傾いていた。リストラクチュアリングによって、端的に言えば社員の賃金カットとクビ切りによってなんとかしているようなものだ。

「私はどうすればいい?」

 犯人は電話口の向こうで笑っているようだ。

「まず、明日、あなたがいつも利用している駅へと向かってもらいます。T駅と言えば分るでしょう。そこで、新宿行きのキップを買ってください。それから、改札を通って、トイレに入り、その中の一つに入ってください。目印に、「故障中」の張り紙をしておきます。その後、私から電話をしますから、以上のことを七時までには終えてください。電話に出ない、私の指示に従っていない、警察を呼ぶ等のことになれば、息子さんを即刻、殺します。いいですね。あと、携帯の電話番号を教えておいてください。連絡用にね」

「七時まで、だな?私の番号は090××××××××だ」

「ありがとうございます。よろしいすね。難しいことは何もないでしょう。私が指示したこと、それだけです。それからのことは、電話したときに伝えます。よろしいですね」

「ああ。それで息子を返してくれるんだな」

「そうとは、言ってません。指示通りに動いてくれれば、安全は保障する、と言っただけです」

「そんな!どうしたら、息子を返してくれるんだ!」

「とりあえず、明日です。それでは」

 そう言って、電話は切れた。美恵子が心配そうに近づく。

「昭一は…」

「今のところ大丈夫らしい。犯人の指示があった。簡単なことだ。駅に行けばいいだけ。その通りにすれば、昭一は安全だ。なに、大丈夫。必ず、昭一は帰って来る。とりあえず、明日、犯人の指示に従う。その様子を見てから警察に連絡しよう。犯人は、私達の行動を見張っているらしいんだ。もしかすると複数犯かもしれないな。とにかく明日だ。今は飯にしよう。今はあれこれ考えたって仕方がない」

 美恵子は、まだ詳しく話を聞きたいような素振りを見せていたが、昭がさっさとソファーに座り、食事の用意をするよう促したので、それ以上追求することはせず、それに従った。

 このときの昭に油断がなかったとは言い切れない。犯人の要求に対して、比較的簡単にそれが実行可能であったことがそうさせたのかもしれない。

 とにかくその日は、犯人像についてあれこれ考えながら―心当たりがありすぎて特定することは不可能だったが―眠れない夜を過ごす羽目になった。




 そろそろ犯人の指定した時間になる。時計でそれを確認し、男子トイレへと向かう。犯人が指定した時間には少々早いのであるが、駅内をあまりうろうろして挙動不審だと思われるのも嫌だったし、指定された時間より早く着いても問題はないだろうとの判断による。ちょうど電車が到着したらしく、乗客が階段を上ってくる。そうした人達に紛れるようにしてトイレへと近づいていった。

 トイレの前には、「清掃中」の看板が置いてあった。にも関わらず、他の客はそれを気に留めることなく、ズカズカと中へと入って行く。昭としても気の引けるところではあったが、緊急事態だから仕方ないとして中へと入った。

 トイレの中には、数人が用を足していた。犯人の指示通り、一番手前の個室に、「故障中」の張り紙がしてある。人がいる中、それに入るには勇気がいったが、ここは恥を捨て、思い切って中に入り、きっちりと鍵を閉めた。

 大部分の人にとって、何をすることもなく、トイレの個室にいるというのは経験のないことであろう。一般的には、さっと用を足し、さっと出るのが普通である。普通ではない環境に置かれた昭は、所在無く、立ち尽くしていた。

 とりあえず、座ってみる。昭は、ズボンを履いたまま、便座に座るという行為に、言いようのない違和感を感じた。便座が座るためのものではないことを改めて実感する。そうだとしても、何をするわけでもないのに、ズボンを脱ぐというのは、さらに間抜けな気がして、そのままで着席しておく。

すると、急に外から扉をノックする音が聞こえてきた。

「すいません、こちら、故障中となっておりまして。申し訳ないですけど、隣で…」

 それに答えないでいると、再びノックされる。

「すいません、すいません、お客さん、ちょっといいですか。隣空いてるんで、そちらでお願いします」

 故障中の張り紙を見た業者が訪れたのだと昭は思った。それでも外に出るわけにはいかない。ここで出てしまえば、時間通りに中へ入ることは困難になり、結果的に犯人の指示を無視することになる。昭は、できるだけじっとして、動かないように努めた。

 何回かの雑踏が、トイレを訪れた。再びノックされるのではないかと思うと落ち着かなくなり、時計を何度も確認した。一秒経つのがこんなにゆっくりなものだと、昭は初めて感じた。

 携帯のバイブが突然鳴り出した。慌てて携帯を取り出す。携帯の画面には非通知の文字が浮かんでいた。

「もしもし、到着しましたか?確認すればすぐ分かることですが、私としてもあまり目立ちたくないのでね。到着したものとしてお話しますよ。ところで、もう便座には座っていますか。座っていないなら、今すぐ座ってください」

「もう座っている。それで、これからどうすればいい?」

 周囲に聞こえないよう、ひそひそ声で話す。今までの状況でも相当に間抜けだったのに、中で電話をしている、という行為は異常性をさらに増す行為である。

「よろしいです。あなたはこれからそこに座り続けてください。ここで、一つ、残念なことをお伝えしなければならないのですが…」

 昭の頭に最悪の事態が浮かぶ。

「まさか、昭一を殺したんじゃないんだろうな?」

「大丈夫です。子供さんはぐっすりと眠っています。残念なことというのは、あなたの身に起きたことです」

 犯人は残念そうに大きくため息をつく。

「実は、あなたの座った便器に爆弾を仕掛けました。あなたが座ったことで爆弾はいつでも起動する状態になり、席を立つと起爆します。火力としてはね、せいぜいあなた一人を吹き飛ばすぐらいですが。あ、人を呼ぶような変な気は起こさない方がいいですよ。この爆弾は傑作でしてね、破壊力を抑えた代わりに遠隔操作もできるんです。ですから、辺りが騒がしくなるようなことがあれば、私はいつでも爆発できるのです」

 昭は、今、自分の身に起きている最大の不幸を瞬時に理解できないでいた。

「おい、どういうことだ?俺はどうすればいい?おい!こんなに人がいる中で爆弾が爆発したらどうなると思ってんだ!」

 犯人は、喜びを抑えきれないといったようで、笑い声を上げている。

「これは復讐だよ、西野!お前が助かることになれば、子供が死に、このままだとお前が死ぬ。普通に死んでもらうのは面白くないんでね。ちょっとした余興だよ。トイレの中で死ぬなんて、こんな間抜けな話だろう?俺にとっては、これ以上、面白いことはないね!どうする、西野。このままだといつか誰か気付いて、あんたを助けようとする。そうすれば、俺は爆弾を起動させる。潔く死を選ぶっていうのもあるな。けれど、もし、万が一あんたが上手くやって助かるようなことがあれば、息子が死ぬことになるぞ。さあ、どうする?ま、よっぽどのことがない限りあんたが死ぬな」

 外からノックしてくる音が、先ほどよりも強く聞こえた。

「どちらにしろ誰かが犠牲になるっていうのか!確かに、爆弾が爆発すれば、あんたの復習も果たされることになるが、たくさんの人も巻き添えになるんだぞ!」

「そんなこと、ちっとも心配してないくせにな。まあ、せいぜい悩んでくれ。じゃあな」

「待て、待て、待て!」

 昭の呼びかけも虚しく、電話は切れてしまった。昭は、自分ではどうすることもできないという喪失感と怒りが入り混じったような感情に包まれていた。壁からは、扉を叩く音が室内中に響いていた。




「と、まあこういう訳なんです」

 清掃員とやらは、ほうとか、ふうんとか適当に相槌を打ち、他の乗客がやってくるのに気付くとこれが合図だと言わんばかりにノックしながら、昭の話を最後まで聞いていた。

「うーん、確かにとんでもねえ奴だな。駅が爆発するってのは俺も困る。巻き添えはごめんだからな。でもよ、俺、変なことに幾つか気付いたんだわ」

 いつの間にか、相手はため口になっていたが、相手を不快にさせるわけにもいかず、そのことは黙認しておく。

「どういうことです?」

「俺は、ここの清掃員なんだけどよ、そんな爆弾を仕掛けてるっていうような奴は見かけなかったけどな。もし、犯人の言うとおり爆弾が仕掛けられててもよ、ようするに便座、ウォシュレットの部分を丸ごと外して、入れ替えたってことだろ?まあ、他のところに比べれば、便座の部分が丸ごと取り外せるってことで作業は簡単だろうけどよ、相当目立つぜ。おまるを抱えてんだから」

「そうですけど。でも、ここは本当に爆弾が仕掛けられていると考えて、対策を立てた方が無難ではないでしょうか?狂言かどうかを確認するために、立ち上がるのはちょっとリスクが大きすぎるかと」

「まあ、確かにな。でよ、話は変わるんだが、あんたは張り紙を目印にしてここに入ったんだよな?」

「そうです」

「その張り紙ってのは、俺が貼ったんだ。朝、ここに来てな。詰まってたんだよ、ここ。そんときは、何も貼ってなかったぜ?」

 昭は、その新事実に驚いた。前のめりになりすぎて、思わず便座から落ちそうになる。

「どういうことです?犯人は、ここが故障していることを見越して?」

「さあ、よくわかんねえけど、そんな故障してるかどうかも知れないところを指定するかね。俺が先に張り紙をしちまって、貼ってあるんならもういいや、と思ったかもしんねえが。とんでもないことをする奴の考えてることは、よくわかんねえな」

 お互い、思考の行き詰まりを見せてきたところで、ノックされた。どうやらまた乗客がやってきたらしい。その間に、昭は頭を整理しようとするが、思考の糸はこんがらがっていくばかりだ。

 しばらくして、トイレは静寂を取り戻したようだ。不意に、扉から声がする。

「あんた、犯人になんか心当たりはねえのかい?」

 昭が昨日から考えてきたことだったが、答えは出ていない。

「いいえ、というか、心当たりがありすぎて、分からないと言った方が正しいですね」

 ふうん、という返事が返ってくる。

「私は、これまで、お世辞にも正直にやってきたとは言えません。人を裏切りもしましたし調子のいいことばかり言ってきて。先ほどの話に少し出てきたんですが、私、社長なんです。一応ね。小さい会社ですけど、一時期はなかなかだったんですよ。最近は経営が厳しくて。自分のやってきたことに目を瞑って、一生懸命やってきたつもりだったんです。これは、当然の報いと言えるかもしれないですね」

「社長ってのも大変なんだな。俺は、しがない清掃員だけどよ、やっぱ社長になれたらって思ってたぜ。ふんぞり返ってるだけで、金がもらえるってな。だけど、あんたの話聞いて、考えが変わった。社長には社長なりの悩みってのがあるんだな」

「はは、今となっては後悔しても遅いですけどね。そう言ってもらえると少し楽になります。でもまあ、私は、殺したいほど恨まれていたってことですから、仕方ないです」

「俺は、仕方ないとは思わないけどな。ひどい目に遭ったにせよ、こんなことすんのは馬鹿げてる。まあよ、助かったら、一度そいつと話しあわねえとな、そいつと。あんたがしたことも含めてな」

「そうですね」

 昭は力なく、答えた。自分が助かる見込みなどないような気がしたし、もし助かったとしても、昭一が殺されるのでは、死んだ方がましだと思っていたからだ。そうした悲壮感が、顔も知らない駅の清掃員を、世界の誰よりも信頼するようにさせたのかもしれなかった。

「こんな状況で話すことではないかもしれませんが、昭一は、私が四十二のときに生まれた子供なんです。私も妻も、もう子供はすっかり諦めていましてね、そんなときに生まれた子供なんです」

「ふうん、それじゃあ可愛くて仕方ないな」

 昭は、少し照れくさそうに笑った。

「そうなんです。結婚してからずっと、男の子が欲しいって妻と話してたんですけど、なかなかこればっかりは上手くいかないもんです。ほら、言うでしょ、息子とキャッチボールするのが父親の夢だって。私も、そんな夢を持つ一人だったんです。今日、本当なら息子と出かけてね、グローブを買おうと思っていたんです。それが、こんなことになって…」

「大丈夫、おめえは死なねえよ。ここを出て、息子さんも無事に助かったら、いくらでもやりゃいいじゃねえか、キャッチボール。で、息子さんはいくつになったんだい?」

「五つです。今年で六歳になるんです。来年には小学校に上がります」

「可愛いさかり、だな」

扉の向こうから、ポリポリと頭を掻く音がする。今までとは打って変わって急にしおらしくなったようだ。

「どうしたんです?」

 外の清掃員は、少し躊躇うようにして口を開いた。

「いやな、俺にも、息子がいたんだけどよ、五歳のとき、死んだんだわ。交通事故でね。それをちょっと思い出してな」

「そうなんですか…」

「息子が死んだって聞いて、カミさんはずっと泣いてばっかいたけど、俺は、怒りで自分って奴を見失っちまっててな、泣くにも泣けなかったんだよ。謝りに来た奴ってのもぶん殴ったし、周りにもあたりちらかして。とにかくひどかった。自分でもそう思う。でもな、俺には、そうすることしかできなかったんだ」

「私も、分る気がします。息子が死んだら自分もどうするか、想像もできません」

「でよ、その後、カミさんは、抜け殻みたいになっちまって、息子の後を追うようにぽっくり逝っちまった。俺はカミさんに何もしてやれなかった。葬式の準備ぐらいしかやってやれなかった」

「苦労、なさったんですね」

「まあ、そう言う奴もいるな。でも、そんときの俺はとにかく、世の中が憎くて仕方なかった。なんで、息子が、浩平だけが、死ななきゃなんなかったのか。なんで、俺だけがこんな辛い目に遭うのかってな」

 昭には何もかける言葉がなかった。息子を失ったという不幸を背負った目の前の相手が、、親身に自分のことを考えてくれていると思うと胸が熱くなった。

「俺、思うんだわ。世の中にはどうしようもねえってことで溢れてんだから、これ以上誰かを不幸にすることなんてねえんだよ。だから、俺は絶対にその犯人は許せねえ。絶対に捕まえようぜ、なあ。おっと、人が来たらしい」

 そう言ってノックの音がした。今は、この沈黙が、昭にとってはありがたかった。誰かの背負ったものを、誰かの痛みを感じることがこれほどまでにつらいことを彼は初めて知った。




 しばらくの沈黙の後。


「ところでよ、俺、ちょっとばかし気になることがあんだわ」

「何です?」

「その犯人が指定したってのはここで合っているのかね?」

「犯人は、『私がいつも利用している駅』と言いました。おそらく、私のことを詳しく知っていて、近くに住んでいる人物だと思うのですが」

「まあ、そうかもしんねえけどよ、やっぱりあの張り紙が気になるんだわ。で、張り紙をしたってのは別の場所だったんじゃないかってね」

「でも、どこに…」

「で、俺は思った。『いつも利用している駅』って犯人は言ったんだろう。そしたら、もう一つあるじゃねえか。駅が。京王線の方がよ」

 昭は愕然とした。この駅にはは、小田急線と京王線が連絡しているのだ。

「た、確かに。私は、いつも小田急を使っているんで、全く考えませんでした…犯人からは特に指定はありませんでしたし。私も突然のことでそこまで頭が回りませんでした。いつものように、小田急の改札を抜けて」

「根拠ってのは俺の勘だけなんだけどよ、もしそうだとしたら相当に間抜けだぜ。お前も犯人も」

「で、でもそうだとしたら、昭一はもう殺されているんでしょうか?」

 昭はもうすでに名前も、顔も分からない清掃員を頼りきってしまっている。

「なんとも言えねえが、殺したんなら、連絡が来るんじゃないのかね。話だと、お前が指定された場所にいるかってどうかも確認してないんだろ?さっき電話かかってきたときもそんなことは何も言ってなかったようだしな。それじゃあ、まだ犯人は気付いてないんじゃないのかね」

 昭は黙り込んでしまった。どうすればいいか全く分からなくなってしまったのだ。

「まったく、揃いも揃ってネジが抜けてやがる。もし、俺の言っていることが正しいなら、こんなとこに閉じこもってる暇はないと思うぜ。何かの事情で、犯人がこのことに気付いてないにしても、遅かれ早かれ気付かれる。そうなったらお終いだ。今なら、犯人もこの辺りをうろついてるかもしれねえし、さっさとここを飛び出して、なんとか飛び出すってのが良策だと思うけどな。どっちみち、あんたは指定された場所ってのにいねえんだし」

「そ、そうですが、もし、違っていたのなら、犯人に事情を説明すれば分ってくれるんじゃないかと」

「そんな悠長なこと言ってられるかよ!相手は何しだすか分かんねえんだぞ。そんなこと言ったって信じてもらえるか?いいか、これはチャンスだぞ。おめえも助かって、息子さんも助かる。大丈夫。俺が付いてやるから。爆弾ってのが爆発すれば、俺も巻き添え食うし。おめえと俺は運命共同体だ。もともと助からない身だったんだろ。少しでも可能性があんなら、それにしがみつかねえと」

 なおも、昭は悩んでいた。

「でも…」

「でもじゃねえ!子供がかわいいんだろ?そしたら親父がしっかりしねえと。そんな情けねえこと言ってたんじゃ、子供に嫌われるぜ。キャッチボールもできやしねえ」

 そう言われて、漸く昭にも決心がついた。

「そうですね。もともと死んだ身ですし。息子のために、私は立ちます!周りに人はいませんか?」

「ああ、いねえよ」

「よし、じゃあ、立ちます!」

 そう言って、目を瞑りながら、思いっ切り勢いよく立ち上がった。

 何も起こらない。昭に未だかつて体験したことのない感情がこみ上げてきて、扉を開く。目の前には、昭と同じぐらいか、それよりも年上の白髪交じりの男性が笑顔で立っていた。思わず、彼に抱きつく。

「だろ?」

 昭は、何度もありがとう、を繰り返した。

「まあ、お礼は後でしてもらうとして、こうしちゃいられねえだろ」

「はいっ!」

 昭は力強く頷く。

 そうやって、奇妙な友情が生まれた二人は狭苦しいトイレを飛び出し、改札も飛び越え、京王線の改札口へと向かっていった。やっていること自体は凶悪なくせに、肝心なところで間抜けた犯人を捕まえるために。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ