遠藤学
題名からして間抜けな話です。しかも扱っているものがものだけに…お食事中の方は特にご注意ください。
遠藤学は怒っていた。日本社会に対して、現代日本人に対して、そして、自分の置かれている境遇に対して。
遠藤は駅の清掃員。パートだ。来月で契約も切れる。契約が更新されないならば、これからの生活は成り立たない。しかし、それでも構わない、といった投げやりな気分にもなっていた。
日曜の朝。駅のあちこちには惨状としか言いようのない光景が広がっている。特にトイレ。トイレを担当することになってから、日曜は遠藤にとって憂鬱な日になった。
今日も、その内の一つが詰まっていた。しかも、大の方。歯止めのかけ方を知らない若者のせいなのか、羽目を外したサラリーマンのせいなのか、彼にとってそんなことはもはやどうでもいい。この弛み切った日本への言いようのない義憤。それが心の大部分を占めていた。
(まったくよう、駅の公衆だからって何でもやっていいと思ってんじゃねえだろうな。汚した奴がいれば、それを片付ける奴がいる。そんな常識も分かんねえようになっちまったんじゃ、お終いだな)
そんなことをあれこれ考えながら、清掃の準備に取り掛かる。とりあえず、詰まっているトイレのドアに「故障中」の張り紙を貼っておき、いそいそと準備を始めた。
入り口には、「清掃中」の看板を出している。それでもお構いなしに、客は次々とトイレへ入ってきた。せめて、一声かけてくれれば、彼もむかっ腹を立てないで済むであろう。
(「すいません」の一言ぐらい言えやしねえのか)
そのことが、遠藤のイライラを益々助長する。
漸く乗客の一団が去り、やれやれといった感じで用具入れから姿を現す。この、まだ混雑しない時間帯の内に詰まっている方を何とかしようと考えた。
ところが、である。遠藤が準備をしている間に、故障中の張り紙をしておいた個室に人が入っている。鍵は閉まっているようであるし、人の気配も感じる。先ほど電車から降りてきた乗客と一緒に紛れて、いつの間にか入ってしまったようだ。それにしても、故障してない、空いている隣を使えばいいのに、あえて故障中の方を使用しているのはいかがなものか。
このトイレはウォシュレット付きだ。駅構内の大改装に伴い、トイレも大幅に綺麗になった。新しい分、汚れがすぐ目立つため、遠藤の負担は増えた。確かに、ウォシュレット付きじゃないと落ち着かない人がいるのも事実である。そのことを考慮したって、子供でもあるまいし、トイレがどうとかで故障中のトイレを使用するのは可笑しな話だ。
(この野郎、まだ酒が残ってやがんのか?)
しょうもねえと誰にも聞こえないぐらいの小声で呟きながら、扉をノックしてみる。
「すいません、こちら、故障中となっておりまして。申し訳ないですけど、隣で…」
返事はない。もう用を足す準備に入っているとしたら、その状況で返事をするのはいささか間抜けた感じがする。返事がないのも理解できる話ではある。
しかし、現在、中では臨戦態勢という訳ではないらしい。物音一つしない。中の人物というのは用を足しているようなこともせず、じっとしているようだ。
(まさか、中で寝やがったんじゃねえだろうな。全く、何て言っていいやら)
「すいません、すいません、お客さん、ちょっといいですか。隣空いてるんで、そちらでお願いします」
やはり無反応。中からの動く気配というのは全く感じられない。壁一枚しか隔てていないのに、相手の動きが読めないというのも気味が悪いものだ。
(よっぽどだな、こりゃ。いざとなったら、駅員の奴を呼ぶしかねえな。まあいい、俺は俺の仕事をやるだけだ)
便座でぶっ倒れるのも自業自得だ、そう割り切って遠藤は他の所から作業を始めた。
日曜といえど、朝は何かと忙しい。遠藤は、駅の持つ独特の雑踏をBGMに、自らの仕事に没頭した。もちろん、トイレの中の人物への注意は怠っていない。出てきたら、その顔を一度拝んでやろうと、ちらちらと目をやっていた。
小の方を一通り片付けて、もう一度、問題の個室に近づく。定期的に、何度か人の波が押し寄せたにも関わらず、中から出てくる様子はない。
もう一度呼びかけて返事がなければ、駅員を呼んで引っ張りだしてもらおうと決心した。
(声かけるとしたらあの若造がいいな。あいつなら無駄にやる気に溢れてるから何とかやってくれんだろう)
扉の前に立った。そこで、遠藤は驚愕することになる。どうも、中から話し声が聞こえるのだ。
「おい…ことだ?…おい!…こんなに…どうするんだ!」
まさか、トイレの中で仲良くおしゃべり、ということもあるまい。常識的に考えれば、中で電話していると考えるのが妥当であろう。だが、その行為は、どう考えても常識的ではなかった。ぼそぼそ声で話しているが、電話をしているのは明白である。遠藤はあきれ返りながら、ノックする。
「すいません、お客さん!用がないなら出てきてもらえますかね!ここ、これからちょっと見なきゃいけないんで。張り紙見たでしょう?いいですか、電話するなら外でしてもらえませんかね!」
遠藤が強い口調で言ったにも関わらず、中の人物は電話を切ろうともしない。
「どちらにしろ…確かに、…なるが、…なるんだぞ!」
「お客さん、いい加減にしてください!出てこないと駅員を呼びますよ!」
「待て、待て、待て!」
「お客さん!」
「うるさいっ!」
中の人物は、遠藤に向けてそう言ったようだった。電話で話していた、慌てたような、焦ったような声とは違い、妙に語気が強い。壁越しにも、遠藤に向けられたことが分かった。
一瞬、驚きを隠せなかった遠藤ではあったが、驚きが去っていくと、怒りがこび上げてきた。
「いいですね、駅員を呼びますから。今すぐに出てきてください!」
遠藤がそう言い放つと、中の男は、急に態度を変え、懇願するように話しかけてきた。
「ま、待ってくれ、騒がしいことになると大変なことになるんだ!」
「どういうことです?」
相手は、、自分の置かれた状況を心底哀れむように、大きく、はあっとため息を付くと、恐ろしい告白をした。
「今、この便座には爆弾がしかけられているんだ。俺が席を立つと爆発する仕組みらしい。しかも、遠隔操作できるらしく、もし、このことが騒ぎになれば、爆発させると言うんだ。冗談で言ってるんじゃない。信じてくれ!」
にわかには信じがたい話だった。
(どうやらほんとにやばいらしい。こうなったら本格的に若造を呼びに行くか…)
そう決心し、その場を去ろうとした。その気配を察したのか、相手は必死に食い止めようする。
「待ってくれ、ほんとなんだ!詳しく話をするから、頼むから話を聞いてくれ!俺の話を聞いて、信じられないなら、駅員室でも、警察署でもどこに突き出してくれたっていい、どうせ死ぬんだから。頼む、話だけでも聞いてくれ!」
遠藤にも方向が正しいか、正しくないのかよくわからないものの、相手の必死さだけは伝わってきた。
「ええっと、信じてもらうためには何をすればいい?ええっと、ああ、そうだ、俺の財布をそちらに投げ込んでもいい。そいつはあんたのもんだ。な、頼む。話を聞いて、信じてくれるなら、騒ぎになることだけは止めて欲しい。そして、できることなら、穏便に俺を助けて欲しい」
動揺しすぎて、本人も何を言っているのか、訳が分からなくなった様子だ。遠藤は白髪交じりの頭をぽりぽりと掻く。遠藤としては、物で人を釣るという考え方は少々気に食わなかったが、せめて話だけでも、という気になってきた。
(しょうがねえ、俺もお人よしだ。ま、イカレた野郎に付き合ってやるか)
「分かりました。話、聞きます。でも、扉の前に張り込んで話をするっていうのも変なんで、俺は掃除しながら聞きますよ。他に乗客が入って来たら知らせるんで」
こうして、遠藤とトイレに閉じ込められた人物との、壁一枚を隔てた奇妙なサスペンスが始まった。