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「キミね。自分の意思ってもんをちゃんと持った方がいいよ? そうしないと将来、絶対後悔するから」
自分の意思を持て? 将来後悔する? 担任教師みたいなこと言うなよな。
「ま、あたしも、偉そうなこと言えないけどね。トモくんには、恥ずかしいとこ見られてるし」
小春さんがふっと笑って、ベンチから立ち上がる。
女の人にしては高い身長。僕と並ぶとそんなに変わらない。
だけどその指先も、腕も、腰も、なにもかもが細くて……。
ふわふわした美優とはなんとなく違う、大人の女の人。
「コドモにはわからない悩みって、なに?」
そう言えばまだ、あの日の涙のわけを聞いてなかった。
小春さんは静かに振り向いて、座っている僕を見下ろす。
「この前言ってたじゃん。コドモにはわからない悩みがあるって」
僕の声ににっこり微笑み、小春さんは答える。
「踏切の音って……なんだか寂しいと思わない?」
「え?」
突然のその言葉に、僕は思わず声を詰まらせる。
僕がいつも胸の奥に忍ばせていた気持ちを、今、この人が代弁してくれたから。
「踏切の音と、保育園で笑う子供たちの声と、どこか幸せそうな夕飯の香りと……そんな中に一人で立ってたら、寂しくて悲しくて情けなくて……」
僕の前で小春さんが、ちょっと照れたように笑う。
「泣きたくもないのに、涙が出ちゃった」
心臓がとくんと小さく動く。
あの日の夕焼けの色。いつもと変わらない街の音。生活感の漂う匂い。
僕も同じものを感じていた。なんだかわからないけど、泣きたくなりそうな……。
「でも……小春さんには宏哉がいるじゃん」
そうだよ。泣きたくなったら何も聞かずに抱きしめてくれる、彼氏がいるじゃん。
宏哉兄さんはそういう人だって、僕が一番知っている。
「そうね……ヒロはいつも優しいから。あの人と一緒になる人は幸せね」
「だったら結婚しちゃえば? もう親も公認なんだし、二人ともいい歳なんだし」
なに言ってんだ、僕は。これじゃ「結婚」だとか「同居」だとか言ってる、母さんと変わらないじゃないか。まったく余計なお世話だ。
僕の言葉に小春さんは微笑む。そしてゆっくりと僕から視線をそらし、遠くを見つめるような瞳でこう言った。
「だけど……あたしはきっと、キミたちの家に歓迎されない」
「は? なに言ってんの? うちの母さんなんて、小春さんのことめっちゃ気に入ってて……」
「でもあたし、子供産めないから」
ぴたっと空気の流れが止まった気がした。
「あたし子宮がないの。だから子供は産めないのよ」
小春さんはそう言って、少し寂しそうに笑う。
子供には子供の悩みがあって、大人には大人の悩みがあって……。
やっぱり僕は大人の悩みなんて、これっぽっちもわかってなかったんだ。