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リビングから笑い声が聞こえてくる。
僕は教科書を閉じ、書きかけのプリントをぐしゃっと丸めポケットに突っ込む。
そしてわざとらしく音を立てて階段を下り、母さんたちのいる部屋をのぞいた。
「あ、トモくん、ごめんね? うるさかった?」
僕の不機嫌そうな顔を見て、そう言ったのは小春さんだった。
「いいのよぉ。静かにしてたって、どうせこの子は勉強なんかしやしないんだから」
母さんが笑いながら寿司をつまんでいる。
はぁ? それが受験生に言う親のセリフか? だけどそんなのはもう慣れっこだから、僕は何も反論しない。
母さんが期待してたのは、長男の宏哉だ。
勉強する時は宏哉につきっきりだったこと、まだ小さかった僕でも覚えてる。
そして宏哉は母さんの期待どおりの成績を収め、期待通りの学校へ行き、期待通りの会社に就職した。
次に母さんが期待してたのは、次男の勇哉だ。
だけど勇哉は言うことをきかなかった。
俺は俺のやりたいことをやるとか、口だけはカッコイイことを言って、今はバイトをしながらバンドなんかやってる。世間で言うフリーターってやつ。
初めのうち、そんな勇哉に口うるさかった母さんも、今はもうあきらめているようだ。
そして母さんは、僕には期待するのをやめた。また裏切られて、ショックを受けるのが嫌なんだろう。
期待通りに育ってくれる息子は、一人いればいいと思ったのかもしれない。
どっちにしろそんな僕のことを「恵まれてるな」って勇哉は言う。
そうなのかな……そうなのかもしれないな。
僕は僕の好きなことをやって、好きに生きればいいんだ。
それに文句を言う人は、誰もいない。
やかんでお湯を沸かしてカップラーメンを作る。
母さんのおしゃべりを聞き流しつつ三分間待ってたら、いつの間にか隣に小春さんが立っていた。
「甘いものは嫌い?」
すっと伸びる小春さんの細い指。その指先と一緒に、皿にのった一人分のチョコレートケーキが、カップラーメンの横に並ぶ。
「嫌い……じゃない」
「やっぱり。ヒロとおんなじ」
そう言って小春さんがにこっと微笑む。
なんでも宏哉と同じにされるのは、なんとなくシャクだけど、僕はそのチョコレートケーキをありがたく受け取る。
「それ、小春さんの手作りなんだって。お店で売ってるケーキみたいね」
リビングから聞こえる、母さんのご機嫌な声。
「小春さん、お菓子なんか作れるのねぇ。きっといいお嫁さんになるわよ」
「そんなことないですよ」
「ねぇ、結婚したら同居なんてどうかしら? むさ苦しい男どもは追い出すから」
ちょっ……結婚とか同居とか、勝手に話進めるなよ。しかも男は追い出すとか言ってるし。
「子供が生まれたら、私が孫の面倒みてあげるわよ? 最近は共働きの夫婦が多いんでしょ? 私の友達もそうしてるの」
「そう……なんですか」
小春さんが息を吐くようにつぶやいて、軽く笑った。
ほらな、完全に引いてるじゃんか。
「母さん」
「なによ? トモ」
僕はポケットの中から、ぐしゃぐしゃに丸めたプリントを取り出す。
「志望校書いたら、親の印鑑もらってこいだってさ」
母さんは僕の書いた学校名を見て、あからさまに渋い顔をした。
「あんた……こんな学校しか行けないの?」
そこは美優が行こうとしている学校だった。僕は麻高から三つランクを落として、そこに書き替えた。
別に高校なんてどこでもよかったから。
「いいだろ。早くハンコ押してよ」
「まったくもう。どうして今、こんなもの出すのよ」
ぶつぶつ言いながら立ち上がる母さん。僕はその隙に小春さんにささやいた。
「今のうちに帰っちゃいなよ。あの人の話、まともに聞いてたら夜が明けちゃうよ?」
小春さんは僕の隣でふふっと笑う。
「そうかもね。でも楽しかった」
そして印鑑を捜している母さんの背中に声をかけた。
「すみません。あたし、そろそろ失礼させていただきますね」
「あら、やだ、小春さん。まだゆっくりしていって?」
「今日はこの後予定があって。また今度、お邪魔させていただきます」
「そう? 予定があるなら仕方ないけど」
母さんは本当に残念そうにつぶやく。
男ばかりの家庭に女が一人。話し相手が欲しい気持ちもわからなくはない。
だけど本当に宏哉が結婚したら、お嫁さんは苦労するだろうなぁ……。
「それじゃあ……勉強頑張ってね? トモくん」
小春さんは子供をあやすかのように僕の頭をぽんぽんと叩いて、にっこり微笑んだ。