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「実はけっこうへこんでたのよね」
ぽつりと小春さんがつぶやく。
「ほら、ここでトモくんと会った日」
「ああ……」
小春さんも思い出していた。僕と同じあの日のことを。
「平気な顔してたけど、かなり落ち込んでたの。好きな人の子供も産んであげられないあたしなんて、生きてる意味あるのかな、とか……」
小春さんは昔を懐かしむような顔つきで、そっと髪を耳にかける。
「でもトモくんのおかげでふっきれたんだ」
ゆっくりと僕に顔を向ける小春さん。
「俺は何もしてないよ」
「でも話を聞いてくれた」
「俺じゃなくてもよかったでしょ?」
「ううん、違うの」
僕たちの間に風が吹く。桜の枝が頭の上でかすかに揺れる。
「なんでトモくんにあんな話しちゃったんだろうって……ずっと考えてたんだけど」
小春さんが僕の目を見て言う。
「あたしとトモくんって、なんとなく似てるのかもしれない。不器用なところとか」
「不器用なところ?」
「そう。本当は弱いくせに強がっちゃって、でもやっぱりうまくいかなくて……いつも損しちゃってるような感じ?」
小春さんはいたずらっぽく僕に微笑む。
「でも、弱い自分も見せちゃっていいんだってわかった。トモくんの前で泣いたら、先が見えたの」
夕陽が、彼女の頬をほんのりと染めている。
「ありがとう。感謝してるよ?」
「だったら、俺も小春さんに感謝する」
「なんで?」
「小春さんのおかげで、本当の彼女ができたから」
えーって言って小春さんが笑った。
「あたし何もしてないわよ」
「してくれたよ」
小春さんと出会って、僕はいろんな気持ちを教えてもらった。
何かに向かって頑張る気持ち。人に優しくしてあげる気持ち。誰かを好きになる気持ち。
知らなかったら……きっとまだ僕は、誰かを傷つけながら、退屈な毎日を送っていたと思う。
「送ってもらっちゃって、ありがとね」
小春さんの実家の前で別れる。玄関の照明が灯り、小春さんを待っていた家族の足音がパタパタと聞こえる。
「宏哉の代わりだよ」
「ううん、トモくんはヒロの代わりじゃないよ? トモくんはトモくんでしょ?」
桜の花が開くような小春さんの笑顔。
「じゃあお礼に、またチョコレートケーキ作って」
小春さんは持っていた荷物を僕の手に握らせ、にっこりと答える。
「了解!」
肩にかかった小春さんの桜色のショールが、ふわりと風に揺れた。
***
なんとなくいい気分で帰り道を歩く。
『トモくーん、おむつまだー?』
ポケットで震えているケータイは、七海さんからのメール。
わかってる。今帰るよ。そうせかすなって。
茜色の空の下。おむつをぶら下げながら考える。
次に会う時、小春さんのことを「お義姉さん」って呼んでみようか……。
ちょっと、いや、かなり照れくさいけど。
手をつないだ親子連れとすれ違う。
お父さんとお母さんの手に、ぶら下がるようにして歩いている小さな男の子。
僕もいつか結婚して、家族を持つ日が来るのかなぁ、なんて想いが一瞬頭をよぎる。
その時、僕の隣にいるのが、美優だったらいいなと思う。
踏切の前に立ち止り、そんなことを考えていたら、無性に美優に会いたくなった。
おむつとトイレットペーパーを左手に下げ、右手で美優にメールする。
『明日、うちに来て髪切ってよ。会いたいから』
上下に点滅する赤い光を見ていると、すぐに返事が返って来た。
『うん、いいよ。あたしもトモに会いたい』
電車が僕の前を通り過ぎる。
その風を受けながら、ケータイをポケットに突っ込んで、夕焼け空を仰ぐ。
遮断機が上がると同時に駆け出した。
なんとなく過ごしていた毎日が、今、意味のある毎日に変わろうとしていた。