18
「何しに来たんですか?」
冷たい風に吹かれながら、うねるような桜の木を見上げている小春さんに言う。
「まさか、俺に会いに来たわけじゃないよね?」
「……どうかな?」
そんなこと言いながら、意味ありげに微笑むのはやめて欲しい。
僕はまだ、本気か冗談かの区別もつかずに、勝手に舞い上がってしまうようなコドモなんだから。
「宏哉と……ケンカしたの?」
小春さんはその質問には答えない。
「うちに来なくなったのは、母さんのせい?」
「違うわよ」
やっと振り向いて、小春さんは僕を見る。
「お母さんの気持ちは、すごくわかるの。大切に育てた息子を、子供を産めないような女と結婚させたくないって気持ち」
「それは……」
「あたしがね、病気でこんな体になった時、周りの人たちはみんな『あなたは悪くない』って言ってくれた」
ふっと微笑む小春さんの髪が、夕暮れの風に揺れている。
「もちろんヒロもそう言ってくれた。こんなあたしとでも結婚してくれるって……でもね……でも、あたしがダメなの」
「ダメって?」
「あたし妊娠したことあるのよ。高校生の時」
ざわざわと心臓が騒ぎ始める。
だけど小春さんは、そんな僕にはお構いなしに、ひとり言のように話し続ける。
「相手は、なんとなく付き合ってた同級生の男の子。あたしが『子供できたみたい』って言ったら、ビビって逃げてった。だからあたしは親と一緒に病院行って、子供をおろしたの」
なんて言ったらいいのかわからなくて、ただ黙り込むだけの僕。
「でもその時のあたしはね、逃げてった彼のことを恨むくらいで……お腹の赤ちゃんのことなんか、ちっとも考えてなかった」
誰もいない校庭にチャイムの音が響き渡る。
もう聞き飽きたその音が――どうしてだろう……耳に寂しく残る。
「罰が当たったのよ」
小春さんがつぶやく。
「何年か後に、子宮を取らなきゃ命に係わるって言われた時、あたしはそう思ったの。自分の子供を平気で殺したあたしに、罰が当たったんだ。あたしが二度と子供を産めなくなったのは、あたしのせいだって」
「……違う。小春さんのせいじゃない」
振り絞るように声を出す。だけど思いつく言葉はありきたりの言葉ばかりで、そんな自分が情けなくて嫌になる。
「トモくんも、そう言ってくれるのね」
小春さんは、そんな僕の前で静かに微笑む。
「でも……あたしみたいな女と結婚しても、ヒロは幸せになれないから」
「それも……違うと思う」
小春さんの視線が僕に移る。
「宏哉は口ベタで、ちょっと情けなくて……だけどほんとはすごく優しくて、絶対にウソをついたりしないから……だから本当に、本心から、小春さんと結婚したいんだと思う」
僕は真っすぐ、小春さんの目を見て言った。
「宏哉は幸せになんかなれないよ。他の人と結婚したって……小春さんとじゃなくちゃ、絶対幸せになれない」
小春さんの目がみるみる赤くなって、ばっと顔を隠すように後ろを向いた。
背中をかすかに震わせている小春さんは、泣いていた。
僕は何を言ってるんだろう。
あの二人が別れることを望んでいたはずなのに……なんで僕は、宏哉の肩を持つようなことを言ってるんだろう。
「……ごめん。あたしまた、トモくんの前で泣いてる」
「別にいいよ。でも今度泣くときは、宏哉の前で泣きなよ?」
僕の前でなんか泣かないで、宏哉の前で思いっきり……。
「そうね……そうする」
春を待つ、桜の木の下で振り返った小春さんは、涙でぐしゃぐしゃの顔で僕に笑った。
***
「それじゃあ」
「うん。またね」
踏切のところで小春さんと別れた。
ぼうっと突っ立っている僕に背中を向けて、小春さんは振り向かずに歩いていく。
もう……これでおしまいなんだ。僕の恋はこれでおしまい。
結局「好き」って伝えられないまま……。
遮断機が下りて警報機が鳴る。
うつむいた僕の前で、上り電車と下り電車がすれ違う。
「宏哉のバカやろう……」
好きな人が幸せになってくれればそれでいい……なんてカッコイイこと、今の僕には考えられない。
「小春のバカやろうっ。二度と俺の前に現れんなっ!」
半べそかきながら、電車の音にまぎれて叫んでみた。
そしたら、ほんのちょっとだけ心が軽くなって……またあのチョコレートケーキが食べたいなぁ、なんて思ってる僕は、やっぱり単純だ。