13
家に帰ると玄関に宏哉の革靴が脱いであった。
こんな時間にめずらしいな、なんて思いながら部屋に上がると、リビングから言い争うような声が聞こえてきた。
「どうしてそれが母さんのせいだって言うの?」
「母さんが余計なことを言うから、小春が来れなくなったんだろ?」
「余計なことじゃないでしょ、大切なことよ! あんたが言えないから、母さんが代わりに言ってやったんじゃない」
「だからそれが余計なことだって言うんだよ!」
リビングで言い合っているのは、母さんと宏哉だった。
宏哉のこんなに大きな声を聞いたのは初めてで、だから僕はちょっとビビった。
「宏哉。あんた何にもわかってないのね? あんたは一生自分の子供を抱けなくてもいいの?」
ああ……やっぱりそのことか。
僕が帰ってきたことに気づいた母さんは、一瞬言葉を切ったけど、すぐにまた口を開いた。
「母さんはね、あんたに普通の結婚をしてもらって、普通の家庭を作って欲しいのよ」
「子供がいないと普通じゃないのか? 僕は母さんの言う『普通の家庭』だけが、幸せとは思えない」
「じゃあ母さんが間違ってるって言うの? 孫を抱けないなんて、私は絶対嫌ですからね!」
「孫だったら……勇哉の子供がいるだろ?」
宏哉の声に母さんの顔色が変わる。
「勇哉の子供がいるからいいじゃないか」
「宏哉……」
「僕も僕の生きたいように生きるよ」
母さんに背中を向けた宏哉が僕の隣で立ち止まる。そしていつもの穏やかな表情で、少し笑ってこう言った。
「ずいぶん遅い反抗期だろ?」
それだけ言って宏哉が出て行く。残された母さんは、崩れるようにその場に座り込んだ。
「どうして……どうして宏哉まで……どうしてみんな出て行っちゃうの?」
母さんの背中は情けないほど小さく見えた。自分の母親をこうやって見下ろしているのは、なんだかとても変な気持ちだった。
「母さん……まだ俺がいるから」
消えそうな声でつぶやいてみる。
「母さんが望むなら、俺、絶対相南行くし、それから東大行って、宏哉よりもっといい会社入って、超美人な人と結婚して、子供五人ぐらい作って、そんで……」
そのあとは言葉にならなかった。何を言っているのか、自分でもわけがわからない。
「トモ……」
今にも泣き出しそうな顔をして、母さんが僕を見る。
ああ、そうか……僕はずっと、母さんにこうやって見て欲しかったんだ。
僕はここにいるよ、いつだってここにいるんだよって、気づいて欲しかったんだ。
「バカね……あんたが東大なんか行けるわけないでしょ」
母さんが鼻をすすりながら、そう言って笑う。
「それに、母さんのために勉強してどうするのよ」
それもそうだ。僕は宏哉に負けないくらいマザコンだ。
「ほんとに……トモはバカなんだから」
だけどこの日、僕は初めて、母親に自分の気持ちを伝えられた気がする。