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我が家に「結婚話」が持ち上がったのは、その日の夜だった。
だけど「結婚」って言葉を口にしたのは宏哉じゃなくて、勇哉のほうだったから驚きなんだ。
「え? 結婚? 勇哉、あんたいきなり何言ってるの?」
喉が渇いたから何か飲もうと思って冷蔵庫を開けたら、僕の耳に母さんの声が聞こえてきた。
「だからできちゃったんだよ」
「は? 何が?」
「だから子供! 子供ができたの!」
何か言いたげに、口をぽかんと開けている母さん。新聞から目を離さないまま、漫画みたいにゴホンと一つ咳払いする父さん。
勇哉はポケットに手をつっこんで、いつもと変わらず俺様的な態度で立っていて、宏哉はそんな弟のことを黙って見ていた。
「ちょっと……勇哉、あんた今、何て?」
「ったく、何度も言わせんなよ。俺の彼女に子供ができたから、結婚するって言ってんの」
「結婚するって……あんた簡単に言うけどね。フリーターの分際で、どうやって妻や子供を養っていくつもりなのっ」
「大丈夫だよ。そのへんはちゃんと考えてるから」
「何を考えてるっていうの! あんたは甘いのよ! 昔から何もかもが甘いの!」
「あーもう、うるさいっ! 俺、この家出て勝手にやるから!」
どかどかと音を立てながら、勇哉が階段を上っていく。
「ちょっと待ちなさい! 勇哉!」
母さんはヒステリックな声を上げていて、父さんはずっと新聞を見たままで、宏哉は一言も口を出さなかった。
「勇哉っ」
僕はそんな勇哉のあとを追いかけて階段を駆け上る。
ふてくされたような顔つきの勇哉が、部屋の前で僕に振り向く。
「ほんとに……出て行くの?」
「ああ」
「ほんとに……結婚するの?」
勇哉はぐしゃぐしゃと赤っぽい髪をかいて、僕の顔を見下ろした。
「トモ。まさかお前まで、俺のこと信用してないわけじゃねぇよな?」
信用……してるわけないじゃん。
僕にあんなに「ゴムつけろ」って言ってた人が、彼女妊娠させちゃったんでしょ?
「俺だってちゃんと、将来のことくらい考えてんだよ」
「バンドでメジャーデビューして食っていこうとか、思ってないよね」
「アホか! 俺はそれほど世間知らずじゃねぇ!」
勇哉がそう言って、僕の額にデコピンをする。
「今までずっと考えてたんだ。考えて俺が決めたんだ。だから誰にも文句は言わせない」
そして部屋に入ると、すぐに小さなバッグを肩にかけて出てきた。
「この部屋、宏哉にやるって言っとけ」
「え?」
「出来の悪い息子がいなくなって、出来のいい息子の嫁さんが同居して、お袋にとっては一石二鳥ってやつだろ」
ふふんと鼻で笑って勇哉が言う。だけど僕には、勇哉が無理してるようにしか見えなかった。
「出来の悪い息子とか……言うなよ」
勇哉が薄く笑ったまま僕を見る。
「俺にとっては……頼りになる兄ちゃんなんだし」
「トモ……お前、いいヤツだなっ!」
大げさにそう言いながら、勇哉は僕の体をわざとらしく抱きしめる。
「ちょっ、やめ……兄弟でキモいって……」
「大丈夫だよ」
ぎゅーっと抱きしめられながら、僕はその声を聞く。
「大丈夫。トモも、出来の悪い息子なんかじゃないから」
へへっと笑って勇哉が離れた。そしてそのままデカい足音を立てて、階段の下へ降りていく。
「マジで……行っちゃうの?」
下で母さんの怒鳴り声が聞こえたあと、玄関のドアが乱暴に閉まった。