サンタはまだ風呂を掃除している
クリスマスの買い物に行こう、と妻が言ったのは、夕方の四時だった。
その言葉を聞いた瞬間、俺の中で何かが「カチッ」と切り替わった。外出用のスイッチだ。
コートを羽織り、財布、鍵。体が勝手に動いていた。
――ここまでは。
玄関で靴を履きながら待っていると、背後から「ちょっと待って」という声がした。嫌な予感は、だいたい当たる。
振り返ると、妻はキッチンに立っていた。
「これだけ作ってから行こうと思って」
フライパンが火にかけられる音がした。
俺は靴を履いたまま、立ち尽くした。
まあ、料理くらいならいい。五分、長くて十分だ。そう自分に言い聞かせる。だが妻は料理を終えると、次にシンクを磨き始めた。さらにそのまま掃除機を取り出した。
俺の行く気メーターが、目に見えて下がっていく。
八割。
六割。
三割。
このあたりで、俺は悟り始める。
ああ、これはもう「行く前のやつ」じゃない。「やり切るまで止まらないやつ」だ。
十分後、妻は風呂場にいた。
なぜだ。なぜ今なんだ。
風呂掃除を始めた妻の背中を見ながら、俺はぼんやりと考えた。
――サンタだったら、もう帰ってるな。
頭の中で、赤い服を着たサンタクロースが浮かぶ。煙突の前で腕時計を見ている。トナカイも寒そうだ。
「まだかい?」とトナカイが聞く。
「いや……今、風呂を掃除してるらしい」とサンタが答える。
サンタは待たない。
時間通りに来て、時間通りに帰る存在だ。少なくとも、俺の中では。
だが、もしサンタが妻だったらどうだろう。
プレゼントを持って家に入り、こう言うに違いない。
「この家、ちょっと汚れてるわね」
そこから掃除が始まる。床を拭き、棚を整え、最後に風呂を磨く。トナカイは外で凍えている。
プレゼントが置かれる頃には、朝だ。
現実に戻ると、妻が風呂場から顔を出した。
「じゃあ、行こうか」
そのとき、俺の行く気メーターはゼロだった。
行く気が完全に切れると、人は穏やかになる。怒りも文句も出てこない。ただ、静かに終わる。
「ごめん、もう行く気がなくなった」
妻は少し驚いた顔をしたが、すぐに「そう」と言った。
その夜、家は異様にきれいだった。
チキンもある。
風呂も完璧だ。
サンタは来なかった。
でも、なぜか全部揃っている。
俺はソファに座り、きれいになった部屋を見回した。
子どもの頃、サンタは時間通りに来ると信じていた。
でも大人になるとわかる。
サンタは、
「今やろうと思ったこと」を
全部終えてから来る。
だから、たぶん今年も来ない。
――来ない年のほうが、ずっと多い。




