8 肉じゃがの記憶(1)
ここから新章になります☆
「ここ……飲食店なんですが……」
やっぱり、やばい客だったじゃないか。だから、時間を過ぎて入ろうとしてくるような客、入れちゃいけないんだ。
橋本はサングラスの隙間から、横目で杏奈に視線を送る。視線を感じた杏奈はうっすらとした冷や汗をかいていた。
「もちろん、分かっています。すみません、いろいろすっ飛ばしてしまって。料理をお願いしたいんです。その、肉じゃがを作って欲しくて」
「……肉じゃがですか? それくらいなら……」
橋本は冷蔵庫と厨房の野菜ストッカーを思い浮かべる。じゃがいも人参、タマネギ、冷凍してある牛肉もあったはず。凝ったものでなければすぐ作れる。もう、今日作ってお暇してもらった方がいいんじゃないか。
「ただ、どんな肉じゃがか、分からないんです。自分でも作りましたし、あちこちに出かけて小料理屋で食べてみたりもしたのですが……どうしても、記憶の味と一致しない。それで、どうかお二人の力で、私の記憶にある肉じゃがの味を再現してもらえないでしょうか。どうしても、私はその味を思い出したい、思い出さないといけないんです!」
必死な気持ちを抑えられなくなったのか、声のトーンが次第に強くなっていった。
うん、やばい客だ。
どうする? 110番するか? 閉店後も居座って妙なことを話し続けている、営業妨害という線で通報しても良いんじゃないだろうか。変に断っても、こういう人は粘着して来そうだし……。
「どんな味なんですか?」
「ばっ!」
興味津々という顔で質問した杏奈を、橋本は慌てて厨房の方に引っ張り込んだ。
「きゃっ、な、何ですか! いきなり腕引っ張って……お、お客さんもいるのに……」
橋本が口元に指を一本立てて、厨房の影で、男性から見えない角度で小声で話し始める。
「何考えてんだ?」
「何って……は、橋本さんこそ……一体何ですか、手掴んで……」
「? 何言ってんだ? だから、あんなヘンテコな依頼、受ける気かよ」
「え、あ、そっち? 受けないんですか?」
「ここは料理店だろ? メニューを用意して、客に選んでもらう、それが仕事だ」
「お客さんが食べたいっていう料理を作るのも、料理の仕事じゃないですか?」
いやいやいや、と橋本が首を振った。
「フルオーダーか? そういう世界もある、でも、俺たちにそんな洒落たことやってる余裕は……」
「話だけ、聞いてみません? なんて言うか、あんなに必死に料理を食べたいって、私、聞いたことがなくて」
一拍置いて、杏奈が付け加えた。
「それに、そこまでして思い出したい味って、どんな味なのか……」
ああ、そうか。
食べる、ことに関しては、こいつのセンスは他に類をみない。
「お前、興味があるんだろ」
「……え?」
きょとんとした顔で、杏奈は橋本を見つめた。
自覚はないか。
まぁ、自分は雇われの身。女将さんか杏奈がやるというなら、それには従うのが道理か。
「今回だけにしろよ」
「……ありがとうございます」
杏奈の笑顔に橋本はため息をついた。
***
なんとも不思議な依頼だった。
引き受ける旨を伝えたところ、男性は名刺と、封筒に入ったA4サイズのメモ2枚を置いていった。
時計は11時30分。賄いのパスタを食べながら、橋本と杏奈は名刺とメモを眺めていた。
「この会社、結構大きいですよね」
淡い黄色の厚紙で作られた名刺にはフジカワスグルソリューション、代表取締役 藤川卓 と記載されていた。自分のフルネームを会社名にするなんて、大した自信だなと思いつつ、いや、自分を覚えてもらうには良い方法だし、逃げ隠れしない覚悟の現れか。橋本は名刺を裏返しながら、そうだな、とつぶやいた。
もともと営業・販売システム系の会社で、最近はグループ会社を増やしながら、ソフトウェアの研究開発、オフィス機器の販売、そこから大きめのイベントプロモーション、官公庁事業などにも拡大している、とAIのまとめですぐに出てくるくらい、立派な大企業だ。
で、そこの社長。
「めっちゃ、偉い人だな……」
塩撒いて追い返すとこだった。
橋本は冷や汗を悟られまいとしたが、杏奈から、依頼受けて良かったですね、と言われ、それは素直に、そうですね、と返事をした。
「記憶障害と肉じゃが、ですか……」
メモに書いてあることは、杏奈の一言に集約されていた。
読んでいただいてありがとうございます!
記憶と味覚に二人は辿り着けるのか……というところで、向こう何回かは肉じゃがを作ります。
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