エピローグ:三河杏奈の味覚について
何か荷物でも頼んでいただろうか。
ひどい顔、ひどい格好だけど、別に知らない人に会うだけなら。
店の内鍵を開けて、チェーンをかけたまま、玄関を少し開けた。
そこに橋本さんが立っていて、私は心臓が止まるかと思った。
「何で杏奈が家にいるんだ? 高校は?」
「あ……その……、今日はちょっとお休みにして……橋本さんこそ、どうしたんですか……あっ……」
慌てて髪の毛を手櫛で整える。
いや、そもそも……何て格好で……。
「ち、ちょっと着替えてきて良いですか? 私起きたままの格好で……」
「え、良いけど……別にここで話す分には、それでも大丈夫じゃない?」
「だ、大丈夫じゃないですよ! こんな、かわいくない……」
「別に、十分かわいいと思うけど」
「え?」
何て?
「あ、いや何でもない。少し話があるんだけど、入れてくれる?」
何だか、現実感がなくなってきて、そのまチェーンを外してしまった。
***
「……女将さんいないの?」
「あ、病院の定期検診で……」
「そっか、まぁ……」
少し、息を吸う。
「杏奈に用事があって、女将さんに伝言を頼みに来たから、別に良いんだけど」
「私に?」
「ああ」
「えぇと……どんな……」
何から話したらいいんだか。
そもそも、さ。
そうだ、大変だったんだぜ、色々あったんだ。
「あの後さ、大変だったんだ。月曜の朝に電車乗るとき、スマホ落としちゃってさ。夜に回収したら壊れてメモリも飛んじゃってるし。剣持さんの店の方はトラブル続きでめちゃくちゃ忙しいし。杏奈とは連絡取れないし」
「あ……連絡、取ろうとしてくれてたんですか?」
「そりゃそうだろ」
「え、あ⋯⋯えーと……」
そう言えば、杏奈は連絡しようとしてくれてたんだろうか。
笑っちゃうよな、どう思われてるのか、結局は不安で。
何から聞いたら良いのか、でも、大事なことだから。
「何で、俺を剣持さんのところに行かせようとしたんだ? 女将さんだって、まだ厨房に立てないんだろうし、もうしばらく手伝ってくれって、言ってたじゃないか」
「だって、それは……」
杏奈がすっと俺の目を見た。
「剣持さんの話は、間違いなく良い話じゃないですか」
杏奈が俯いた。
「橋本さんが「三河」を手伝ってくれたら私は……でも、それじゃ、私は橋本さんの可能性を縛ることになる。そんなの、久住さんがしていたことと、結局同じだって。私は……私は、橋本さんに、立派な店で、もっとたくさんの人に知ってもらって……」
張り詰めていた気持ちが、やっと緩んだ。
ああ、良かった。
そういうことか。
「なんだよ、そんなことだったのか……」
「そんなことって……私はたくさん、たくさん悩んで……」
「そんなの、「三河」を有名にすりゃいいじゃないか。剣持さんの店に負けないくらい」
「え……」
「俺一人じゃ無理だけど、杏奈とならできるさ」
***
私は、もう、視界が滲んで、よく見えなくなっていた。
***
家から逃げ出した日も、シルフィードをクビになった日も。
そう言えば、俺は自分がどうしたいのか。
それをちゃんと言わなかった。
いや、ちゃんと分かってなかったんだ。
でも、今は、分かる。
「剣持さんの誘いは、正式に断ってきた。別に、働きたい店があるからって」
俺は杏奈の、少し薄茶色の瞳を正面から見つめた。
「俺は、ここで料理がしたい。だから……」
何かを期待したり、求めたり。
それは怖いことだ。
不安なことだ。
でも、ぶつけてみて、確かめて、それで前に進んでいくしかない。
逃げないで。
だから、聞かせてほしい。
「ここにいてもいいか?」
杏奈が駆け寄ってきて、いや、ぶつかるだろ、近いよ、と思って。
気付いたら、彼女の両腕が俺をしっかりと抱きしめたのと。
唇に何か触れた気がした。
耳元で、小さく、でもはっきりとした杏奈の声が聞こえた。
「どこにも行かないで。ここで、料理をしてください」
「あれ? 橋本さん?」
背中から、女将さんの声が聞こえた。
***
三河のカウンターで、杏奈と、1席分の間を開けながら、女将が煎れた緑茶をすすり、視線を逸らしながら、平静を装っていた。
……さっき、俺、キスされたか?
……いや、さすがに気のせいか?
***
……やばい……とち狂って、キスした。
お母さんは、定期検診の時間が11時だと思っていたら、実際は13時だったことに気付いて引き返し、ドラッグストアで買ってきた日用品の片づけのため、2階に上ったきり降りてこない。
絶対、変態だと思われてる。急に抱きついて、挙げ句の果てに、何をしてるんだ私は……。
これ、男女逆だったら、軽く事案じゃないの?
いや、逆じゃなくても駄目なんじゃないの?
考えろ、考えるんだ、折角帰ってきてくれたのに、ここで変に思われたら……。
そもそも、もっとちゃんとしたシチュエーションで告白するつもりだったのに……。
「あのさ……杏奈、さっき……その……」
やばいやばいやばい!
「す、すみません! ちょっとメガネかけてなかったから、距離感上手くつかめなくて! 近づき過ぎました! こないだ、英会話教室でアメリカの女性教師がゲストで来てて、ハグとか、頬ににキスとかするんですけど、えーと、何かそんなアメリカンな感じになっちゃいました! ほっぺでしたよね?」
いや、完全に唇に行ったけど。
「あ、ああ! そうか、そういうことか。あっちの人は、そういう感じだもんな! 昔レストランでそういうの、されたことあるわ」
「あ、そ、そうですか」
あはは、あはは、と乾いた笑いが店内に響いた。
「……すみません、その、橋本さんが帰ってきてくれたのが、嬉しすぎて……」
これは嘘じゃなくて、本音だった。
橋本さんが、優しく笑った。
「さて、じゃ、折角だし……次のメニューでも相談するか」
***
インタビューなんか、久しぶりです。口べたなので、上手く話せなかったらごめんなさい。
そうですね、うちの店が今回、「読者が選ぶ50名店」のうちの一つに選ばれたのは、本当に嬉しいです。
ただ、これは自分一人の力では全くなくて……。
自分は、本当は、料理を辞めようかと思ってたんです。
意外ですか? 本気だったんですよ。
でも、それを、救ってくれた人がいるんです。
その人は、自分の料理の話をする上で、絶対に欠かせない人です。
そう、他の誰にもない、そうですね、宝石のような力を持った人です。
え? なんだか、随分優しい顔で話しますねって? そうですか?
関係? それは、プライベートなことなので。今日、そういうインタビューじゃないですよね?
その人には、今日のインタビューについて、ちゃんと許可は取ったので、ああ、あんまり話しすぎないでください、とは言われてるので、気をつけますけどね。
できあがった原稿は、見せてくださいね。変なこと話してないか、チェックしたいらしいので。
料理と同じで、彼女にちゃんと見てもらったら、きっと良いものになると思います。
それじゃ今日は、彼女の……。
三河杏奈の味覚について、話をさせてください。
(了)
読んでいただいてありがとうございました!
これで本作は完結です、料理が美味しくて、可愛いメイドさんがいるお店が書きたい、というところから始まりましたが、だんだん店を飛び出して、警察やら医者やら出てきて、どこに行っちゃうんだと思い、ハラハラしたものの、なんとかタイトルに着地できたように思います へへ;
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ここまでご覧いただいて、本当に本当にありがとうございました!




