46 終章:あなたがここにいてほしい(2)
月曜日の午後、放課後に部活が休みだという三咲の買い物につき合った後、自宅に帰ると、程なくして玄関のベルが鳴った。
誰だろう、玄関の隙間から覗くと、知らないスーツ姿の女性が立っていた。
「どちら様でしょう?」
「突然すみません。私、株式会社シエルの副社長をしています、細川、と申します」
「……はぁ」
「こちらで、橋本一樹さんが働かれているとうかがいまして」
「……」
誰? まさか、久住・ウィルヘルム・来人の関係者?
「もしかしたら、その、以前橋本さんが働かれていた「シルフィード」のオーナー会社、とお伝えした方が良いかもしれません」
あ、そっちの。
私はチェーンをかけたまま、玄関を少し開けた。
細川さんは、社員証を提示しながら、穏やかな笑みを浮かべていた。少し切れ長の目、ヒールを履いているのを差し引いても、身長は女性としては高い方。仕立ての良いスーツが似合う、仕事のできそうなオーラが全身からにじみ出ていた。
「今日は営業日じゃないので、橋本さんは不在なんです。また別の日に……」
「実は、橋本さんご本人にはもうオーナーから連絡済みでして……今日はこちらのお店の方にお話があって来ました」
***
細川さんが座っていた席を、私はじっと見つめていた。
シルフィードのオーナーが、橋本さんをスカウトしようとしている。
でも、ただ橋本さんを引き抜くだけでは、「三河」が困るでしょう。だから、橋本さんを引き抜く上で、一定の金銭的な保証と、それから、必要なら一定の経験がある料理人の斡旋もできる、と。
申し出は、母親と相談します、と言って、保留にした。
橋本さんに予定されている待遇は、料理人として考えたら、破格のものだった。そう、それが橋本さんには相応しい、と思う自分がいた。
そして、新しいその店での働き方は、極力シェフが表に出ない形態だという。それなら、もしも久住・ウィルヘルム・来人に対する計画が失敗しても、見つからずに働ける可能性が高い。
相応しいと思う、安全な場所から声が掛かっている、大好きな人の、大切な将来を、邪魔をできるわけがあるだろうか。
***
火曜日の夜、営業時間を短縮し、藤川社長と百瀬さくらと打ち合わせが行われた。スケジュールの合間に都合をつけて、杏奈の呼びかけに応じて「三河」に来店した二人は、杏奈が話す計画に驚きつつ、最期は協力を快諾して、店を後にした。
「ありがとな」
リサイクルショップで偶然見つけて、あわてて買った薄手のトレンチコート。多分値段の付け間違えか、店のデータベースに無かったか。新品だったら……いや、新品じゃなくたって、高い買いものだったはず。
袖を通すと、仕立ての良さを実感する。
ちょっと調べれば、分かるのにな。その輝きも価値も、気付かれずに埋もれて、見過ごされてしまうものが、たくさんある。
10月の下旬、「三河」の玄関を開けると、冷たい空気が店内に流れ込んできた。
外に一歩踏み出す。
身が引き締まる思いだった。
「いつでも対応できるように準備しとく。あの日、あの男に出した料理を、さ。藤川社長のことだから、やるとなったらあっという間にセッティングされそうだし」
「……こんなこと、勝手に考えて……すごく大きな話にしちゃって、本当にすみません」
何で頭を下げるんだか。
「すみませんて何だよ。俺は、嬉しいよ」
「え……」
「俺、あいつからはもう逃げるしかないと思ってた。こんなこと、思いつきもしなかったからさ。実際どうなるか分からない、でも、あいつともう一度向き合うなんて、一人じゃ絶対にできないことだった。どんな結果になっても、俺は……感謝しかないよ」
「……私、橋本さんの役に立ててますか?」
「そんなの、ずっとだろ」
じゃあ、おやすみ、と言って、俺は「三河」に流れ込む冷気が、これ以上杏奈の周りを冷やさないよう、玄関の戸を閉めた。
***
三河杏奈は、胸元に手を当てながら、橋本が去った玄関を見つめていた。
***
「好きです、橋本さん」
全部終わったら、ちゃんと伝えよう。
どんな結果になっても、「三河」で一緒に働く日々は、もうそんなに長くない。
何度も頭の中で繰り返した言葉は、誰に聞かれることもなく、玄関に吸い込まれていった。
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