38 第四章 アイドルとスープ(8)/目を奪われるなんて
夕方に、それも、橋本さんから予定を空けておいて欲しい、なんて珍しかった。っていうか初めてだった。準備ができたら連絡するって言ってたけど、準備って……打ち合わせの準備だろうか。
今週はなんか元気がなくて、私も火曜日の会話が引っかかっていて、営業上の話は普通にしていたけど、何となく気詰まりだった。
だから、何だかすごく嬉しくて。
別に、百瀬さくらのスープの打ち合わせだって分かってるけど。
井上さんに相談して、かわいいけど大人っぽくも見える秋物のワンピースを借りてしまった。服を借りるだけだったはずが、ついでにと、軽く髪をセットしてくれた。
申し訳ないけど、すごく嬉しい。
橋本さんに会う前には、眼鏡外しなさいね。そういう風に髪の毛セットしたから。
井上さんは帰り際にそんなことを言っていた。街中で外すのは、見えづらいし、何かすーすーして落ち着かないのだけど。
家に戻ろうと夕方の街を歩いていたら、橋本さんからのメッセージが届いた。
ちょっと、作ったスープがあるから、これから持って行く。
いやいやいや、いいですよそんな、家まで運んでもらうなんて。しかもスープでしょ?
私は橋本さんに電話をかけた。
***
いや、確かにそこからなら、近いし、まぁ、スープも運ぶより、冷蔵庫から出したてが一番いいが……。
杏奈の勢いに押されて、OKしてしまったが、よく考えるとあんまり良くなかったような。
俺は近所のコンビニの窓際で雑誌の表紙と窓の外を眺めながら杏奈を待った。
何の変哲もない、よくある全国チェーンのコンビニだが、街路樹と道路を挟んだ向かいに並ぶ白壁の雑貨屋と美容室が、ちょうどコンビニの窓枠に切り取られた絵画のようで、特に夕方から夜、街灯と相まって、ここからの眺めは美しい。
銀杏はだいぶ色づいて、街の灯りとともに秋の夕方を彩っていた。
その風景の中、スポットライトでも当たっているかのように、落ち着いた色合いのワンピースを着た綺麗な女性がコンビニに向かって歩いてきた。
女性に目を奪われるなんて、日頃あまりないのに、ひどく引きつけられた。
杏奈に会う前に、俺は何考えてんだ。
いや、別に杏奈に何か後ろめたい気持ちをいただく理由なんて。そんなのはおかしな話か。それこそ、俺は何を考えて……。
あれ?
女性が窓ガラスに張り付くくらい顔を近づけて、こっちをじっと見ている。
「橋本さん?」
窓ガラス越しの口元が、俺の名前を発音する形に動いて、耳の先まで血が巡るのを感じた。
***
「そんな服、持ってなかったろ? 髪型だって結んでないし、そもそも眼鏡もないし…」
「井上さんが、なんか色々気を遣ってくれて……」
「井上さんとこに寄ってきたのか、何か用事があったの?」
「用事は……用事は、今日、ありますよ」
え?
今日の用事って。
いや、俺との打ち合わせは、別に打ち合わせなんだから。特別、格好に気をつける必要なんて。
何か、あったんだな。何かの帰り。
「……うち、ほんと、狭い1kの賃貸だから。何も無さすぎて嫌になると思う」
「そんなの、全然いいです」
いや、良いんだろうか、そもそも……。
「女将さんには?」
「そんな、何でもかんでもは、お母さんに話さないですよ。そこまで子どもじゃないですし」
「あ、いや……」
「橋本さんと打ち合わせの予定っていうのは、伝えてあります」
髪型のせいか、いつもより大人びた雰囲気で、落ち着かない。
まぁ、あんまり遅くならないうちに、「三河」に送り届けよう。
「ここの2階、階段少し急だから気をつけて」
***
「な。何もないだろ」
玄関前の狭いキッチンを抜けた先に洋室1間の間取り。安物のローテーブルと壁際にカラーボックス、ベッド、パソコンデスクに動画視聴用のモニター。その程度のがらんとした部屋。いつも座椅子に載せてるクッションを自分の座布団にして、杏奈は座椅子を使ってもらう。
普段、殺風景な部屋、随分華やかに感じられた。
……。
いやいやいや。
やっぱり、これは良くなかったんじゃないか。
店はいい。仕事で行ってるんだから。
男の家に、女子高生を一人で上げるのは、これは何か駄目だろう。女将さんに怒られる。
「わー、これ、何ですか? ノートがたくさん!」
「う、あ、それは、その。昔から書きためてるレシピ集だ。上手くいったやつとか、料理本に書いてないようなこととか、たくさんメモしてある」
「えー、す、すごい……その……見ちゃ、駄目ですよね……」
「別にいいよ、ちょっとお茶入れたり、準備するから、そんなんで良ければ適当に読んでな」
座椅子からカラーボックスに向けて手をフローリングの床に手をつきながら杏奈が近づく。ワンピースも少しタイトな作りだ。
どれもこれも、非常に無防備に見える。
何だか、妙に心配になってきた。
「……あのさ」
「え?」
「いや、別に変な意味は全くないんだが」
「はい」
「男の家とかは、あんまり、誘われたり呼ばれたりしても、ほいほい行かない方がいいぞ。その……危険なことだって……」
杏奈が四つん這いの体勢のまま、顔をこちらに向けて頬を膨らませている。
「橋本さん以外の男の人の家なんて、行きません」
ぷい、と顔をカラーボックスに向けて、レシピを漁り始めた。
……。
俺はキッチンに戻って、ケトルから蒸気が吹き出すのを見ていた。
まぁ、あれだ。
保護者的な感じ?
俺は危険じゃないと。
この用事の為に、身支度して、俺の家だったら別に行ってもいい。
いやいやいや。
ティーバックの紅茶を入れて、マグカップに注いで持ってくると、杏奈はレシピを食い入るように見つめていた。
「……どれも、すごく美味しいですね……」
おお、そうか、レシピから味が浮かぶんだもんな。
でも、改めて。
その力にどれほど救われたか。
「ありがとな」
「え?」
「いや、何でもない。とりあえず、作戦会議して、その後夕食でもいい?」
「あ、はい。え? あ、あの持ってきてくれるって言ってたスープ、夕食用に作ってくれたんですか?」
「ああ、まぁな。それがメインかな」
「とんでもなく楽しみです! じゃあ会議しましょう!」
満面の笑みは、部屋に花でも咲いたかのようだった。
それなりに見慣れているはずだったが。
今日はどうも、少し、綺麗にし過ぎだ。井上さんに文句を言わないと。
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