37 第四章 アイドルとスープ(7)/夢見たいな時間
「女将さんの退院の日、決まったのか?」
「あ、はい。結局10月末になりそうで」
「そっか」
学園祭の次の週の火曜日の夜、片づけ中の私に橋本さんは少し遠慮がちに質問してきた。
学園祭の後、橋本さんはずっと堅い表情で、「ごめん、片づけは頼んだ」と言って、そそくさと帰ってしまって、今日も、ちょっと元気がないっていうか。
「でも良かったな、女将さんが戻ってくるなら、もう店の心配もしなくて済む」
あ。そうなの。
その相談をしたかったんだ…。
「そのことなんですけど、お母さん、やっぱり右手の痺れが結構残っていて、その、以前みたいに厨房に立つのはしばらく難しそうなんです」
「え、あ……そうか」
「その……それで、もし可能なら……橋本さんが良ければ、もうしばらく……」
もうしばらく、じゃなくて、本当は……。
いや、でもそんな困らせるようなこと言えない。
「もうしばらく、ここで料理をしていただけませんか?」
***
その時、橋本さんは、すごく難しい顔をしていた。
自惚れみたいだけど、一瞬、喜んでくれたような。でも、それから、すごく寂しそうな、そんな顔。
***
「あの、アイドルさんの依頼もあるからな」
「え?」
「少なくとも、あれをほったらかしにして、ここを離れる訳にはいかないとは思ってる」
「それって……」
「本業の方……って言ってもパートみたいな感じだけど、人手不足みたいだから。もし入れるならシフト増やして欲しそうではあるんだ」
本業。
「そう……なんですか」
「それに、この店は、やっぱり女将さんと杏奈の店だし。まぁ、杏奈と女将さんには世話になったと思ってるから。迷惑をかけない範囲と期間で、もうしばらく手伝うよ」
「あ、ありがとうございます」
色々引っかかる。
迷惑をかけない範囲と期間って、何?
でも、しばらく手伝うって言ってくれはした。
ふと、橋本さんが、ひどく大人びて見えて、自分は結局年下の高校生の他人で。
どうしてそんなこと言うんですか、なんて言う資格もないってことを、強烈に突きつけられた気がして。
小学生の小さな自分が勝手に片思いをして、それを引きずって夢を見てただけ。
橋本さんのこと、何にも知らない。
「ちょっと着替えてから片づけしますね」
「ああ。例の依頼のスープの件は、ちょっと週末までに考えよう」
これで泣いてるとこ何か見せたら、いよいよ面倒くさい子どもだ。
私はしばらくトイレに引っ込んだ。
***
土曜日の深夜、俺はカラーボックスにぎっしり詰め込んだレシピノートの、一番古い一冊を取り出した。
季節外れだけどな、冷製スープなんて。
暖かいパスタも用意するか。
杏奈には、日曜の夕方、アイドルのスープの相談をするから、時間が取れないかと伝えておいた。もちろん空けておきますってことだったけど、ほんと、いつも、料理の話で俺と時間を過ごして、良いのかね。
そういや、春、夏、秋と、ずいぶん一緒に居た気がする。
もうしばらく、ここで料理をしていただけませんか。
女将さんが帰ってきたら、お払い箱かなと思ってたけど。
情けない、子どもみたいだな。まだここに居て良いっていうだけで、こんなに喜んで。
そんな甘い夢を嘲笑うように、あの男の顔が浮かんだ。
学園祭でも、「三河」の名前は出さなかった。だが、多分、あいつは蛇みたいな執着心で、「三河」にたどり着くだろう。いや、もう知っているかも。
そしたら、杏奈や女将さんに迷惑をかける。迷惑をかける前に、俺は。
ま、ちょっとした夢みたいな時間だった。
レシピを見つめる、深夜2時。
今から作って、明日……っていうかもう今日だけど、夕方まで寝かしておく。
今週準備をしていたコンソメと。
丁寧に、ゆっくり。
あの日の杏奈と、今の杏奈を思い浮かべながら。
ただ、喜んでもらえるように。
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