橋本の場合
昼間、「あいつ」が学園祭に来たことに、かなり苛立っていた。
ビールを多めに飲んで、気絶するように寝た。
それが、失敗だった。昔の夢を見るはめになった。
***
静かな家だった。
駅からそこそこ歩いたところの中古マンションだった。小学校高学年になると、鍵を持って学校に行き、夕方、暗くなったら冷蔵庫から、ラップのかかった小鉢を取り出して温め、炊飯器のご飯をよそって、カップスープにお湯を入れて、夕食。20時くらいに母親が、22時過ぎに父親が帰ってくる。3人とも、別の部屋で寝ていた。朝ご飯だけ、一緒に食べる。会話は、事務的なこと以外ほとんどない。こっちからふっても、たいした反応はないので、そのうちあきらめた。家族旅行なんかもない。
朝ご飯はずっと、苦痛だったけど、それが普通だと思っていた。
高校に入って少し経った休日の夕方、珍しく両親が何か話しているのを聞いた。高校の諸費用の関係で喧嘩してると分かって、耐えられなくなって、家を飛び出した。ぼうっとしたまま結構歩いて、線路沿いに高架下を歩いて、歩いて、歩いて、知らない街中で、夜になった。
そんな状態でも、腹が減って、財布には2000円くらい持ってた。
オレンジ色の明かり。緑のツタ、煙突と、絵本に出てくるような赤煉瓦の建物。香ばしい、優しい、暖かい、洋食の匂い。店の前に置かれた小形の黒板、デミグラスハンバーグ1500円の文字が目に留まった。そして、その横に張り紙があって、アルバイト募集と書いてあった。
誘われるように、ドアを開けた。
20時くらいだったんだろうか。何組か、落ち着いた雰囲気の客の中で、ロングTシャツとジーパンで、薄汚れたスニーカーの高校一年生は、明らかに浮いていた。
一番奥の陰の方のテーブルが空いていて、マスターの奥さんに案内されて、座ったとき、自分がひどく疲れていたことに気づいた。
お金が無かったので、ハンバーグを単品で注文した、はずだった。
運ばれてきたのは、ハンバーグと、ライスと、サラダと、スープと、ポテトと……要するにフルセットで、俺は「すみません、別のテーブルのだと思います」と言った。
お腹空いてるんでしょ? 旦那がサービスだって。ライスとスープはお代わり自由だから、言ってね。
俺は唖然として、でも、もうとにかくお腹が空いていて。
フォークでハンバーグを切って、食べた。
暖かい、出来立ての夕食。
それで、もう、心底ほっとして、奥さんの一言もあったせいか、馬鹿みたいに泣いた。
泣いたのなんて、小学校低学年以来だった。
電車に乗って家に帰ったら、リビングの電気だけが点いていた。母親が寝室から顔を出して、遅くなるならそう言いなさい、と言ったのを覚えている。
俺は、母親の目を見て「俺、ここに居ていいの?」と聞いた。
目を逸らした母親に、好きにしなさい、と言われたのを覚えている。
それで、俺は、居ても居なくても同じなんだろうと、そう思った。
色味の薄かった自分が、完全に透明になった感覚を味わった。
次の土曜日、バイトの申し込みに行った。もう一度、店の料理が食べたかったのが本音だった。今思えば、履歴書も持ってこない高校1年生を即日で雇う店なんて普通、ないと思うが。
店の料理を食べて泣き出す奴を、落とせないだろう? と後日、マスターから聞いた。
それからは、週5でバイトして、夕食は全部まかないだった。マスターと奥さんと食べる夕食は、暖かかった。店で夕食を食べる人たちも、みんな、幸せそうだった。
俺も、作れるでしょうか、美味しい料理。
マスターは、それを待っていたかのように、料理の基本から教えてくれた。俺はあっという間にのめり込んだ。22時の閉店後、終電まで、マスターは厨房を使わせてくれた。そのうち、土日の日中も、色んなレシピを教わって、作るようになった。普通は、長い時間下積みから始めるところ、自分がどれだけ贅沢な時間を過ごさせてもらったのか知ったのは、就職して働き始めてからだった。
その女の子が店に来たのは、俺が高校2年生の時だった。
俺はその頃ビシソワーズ作りにはまっていて、その日は特に美味いバランスで仕上がった。マスターもずいぶん誉めてくれて、「お客さんに出すか」と言ってくれた。
サービス品として、何組かのお客さんに出した。
その女の子が、その日に、ビシソワーズを提供した最後のお客さんだった。
誕生日らしかった。母親と二人の誕生会。
小ぶりの透明な、深さのあるスープ皿に注がれたそのスープを、つぶらな瞳で、まるで宝石でも運ばれてきたかのように、見つめていた。
「ビシソワーズって言って、まぁ、じゃがいもの冷たいスープだよ」
そんな期待されて、肩すかしだったら恥ずかしい。口べたな俺は、ぶっきらぼうに、そう説明した。
その女の子は、気付いたら泣いていて、頬を紅潮させながら。
「今日のお料理で、一番美味しい」
と、そう言った。
そう言ってくれた。
「私、大人になっても、ううん、お婆さんになっても、また食べたい。このスープを飲みたい」
その時、俺は、はっきりと、自分の心に色がついたのを感じた。
透明だった俺を。俺の存在を。
その瞳は真っ直ぐ見つめていた。
「じゃ、またいつか、俺の料理、食べてくれよな」
***
アパートの窓から、朝日が射し込んでいた。
お前が、いつ食べに来ても、大丈夫なように、腕を磨いていたつもりだった。
今度、ビシソワーズを作ろう。
俺は、少しはお前の役に立っただろうか。
そして、迷惑をかける前に、俺は「三河」を離れなければ。
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