31 第四章 アイドルとスープ/不公平
「お母さんが、来月……10月に入ったら退院できそうなんです」
サツキの記事がオンラインで公開されたと、杏奈から連絡が入り、例によって日曜日の朝の「三河」に呼ばれた俺は、朝ご飯を作っていた。
「ほんとか、長かったな……でも、一安心じゃないか」
あ。
俺は麦茶を一口すすった。
でも、そうなると……。
「一樹さん」
ぶはっ。
俺は麦茶を流しに吹き出した。
「何で下の名前?!」
「私のことは杏奈で呼ぶじゃないですか」
「それはお前がそうしろって言ったからだろ!」
「……それはそれです……何か不公平じゃないですか」
いやいやいやいや、おかしいだろ。
何をこいつは必死になってるんだ。
「嫌だ。 何か歳が近づいた感じがする。橋本さんの方が良い」
「サツキさんには、呼ばせてたじゃないですか」
そこか……。
「サツキは、同い年だから! 杏奈は……」
子どもだから。
年下の、妹みたいな……。
そう言うつもりだったが、どうにも言葉が出ない。
「……何でまた、サツキと張り合おうとするんだ?」
「……それは……」
不自然な沈黙。
遠くで車のエンジンが掛かる音、電車の警笛の音。静かな店内に、時間だけが流れる。
「そんな聞き方、ずるい」
杏奈が顔を赤くして、床の方に視線を落とした。
ひどく罪悪感があって、言葉を探していた時、玄関のベルが鳴った。
***
ー本物?ー
ーはい、間違いないですー
目の前の状況に、俺たちは一旦、さっきまでの状況を棚上げした。
「三河」のテーブルに、俺と杏奈が並び、その向かい側に座っている女性は、俺も杏奈も確かによく知っている顔だった。が、それと同時に、お互いに初対面だった。
国民的、と言って言いレベルの5人組アイドルグループで、その中でもかなり人気のある子で、有名企業CMにもよく出てる、えーと……。
ー名前、何だっけー
ー百瀬 さくら ですよ! 愛称はさくたんです!ー
杏奈とひそひそ話しているのを、百瀬さくらが不安げな表情でうかがっている。
店に入ってきた時は大きめのサングラスとキャップを被っており、それでも、その辺を歩いていたら人目を引きそうな雰囲気をまとってはいたが、それらを外すと、確かに、完全に、テレビやネットCM、駅や電車の広告で見たことがある顔だった。
「で……相談って言うのは……」
「急な話で申し訳ないのですが……」
百瀬さくらの隣に座った、ワイシャツにスラックス姿の中年男性が、鞄から1・5センチほどの厚さの冊子を取り出す。
「いま、撮影中の映画があるのですが……この映画の大事な場面で出てくる、とあるスープがありまして……」
思い詰めたような顔をしていた百瀬さくらが口を開いた。
「CMのスポンサーをしていただいている社長さんから、この店、味のイメージを伝えたら、それを再現できるって聞きました。お願いです、この映画に出てくる、「幸福のスープ」を作って欲しいんです」
俺は杏奈と顔を見合わせた。
ー なぁ、どうするんだ? ー
ー ……そうですね…… ー
杏奈がちらりと百瀬さくらを見た。
ーなかなか、無い経験かも知れないですね。あの、橋本さんが、嫌でなければー
……。
まぁ、引き受けるんだろうなぁ。
***
何とも、不思議というかつかみ所のない依頼だった。
「幸福のスープ」は、その映画の中で、主人公の女性が、夢の中で飲むスープだという。
まだ公開前作品で、詳しい内容は教えられないとのことだったが、結構ハードな内容で、虐待を受けて育ち、薬物にも手を染めるようになった主人公が、死の淵で、子どもの頃に誰かに読んでもらった絵本を思いだし、その絵本に出てくる「幸福のスープ」を夢の中で飲むシーン、というところで、演技がストップしてしまっているそうな。 飲んだ後に「何かから解放されたような表情」を浮かべるのだが、それがイメージができない。それで、そこのシーンだけ、ペンディングになっているという。
「これが、その絵本なんですけど……」
絵本自体は実在するもので、ただ、海外の古い絵本の邦訳らしい。古ぼけた絵本の真ん中辺りのページを百瀬さくらが開く。
そのページには、大きな寸胴が、森の中でたき火にくべられていてた。
猫の様な生き物が、木の棒を持って、鍋の中をかき混ぜている。
その絵の上に、次のような文章が添えられていた
きんいろのつぶがみんなおどるよ
ちびもしょうふも飲み込んで
みかづきがきいろにさわぐよ
さいごにげんきをふりかけて
……。
俺は杏奈に視線を送る。
何やら、眉間にしわを寄せている。
「この味が分からなくて……」
百瀬さくらがため息をついた。
まぁ、そうだろうな。全然分からん。
ていうか、何か不気味な絵本だなこれ。
「これ……子ども用の絵本なんですか? ちょっと……しょうふって、あんまり子どもに聞かせる言葉じゃないような」
「そうなんです、これ、海外で、大人向けに出版されていた絵本で、まぁ、売れ行きも特段良くなかったものなんですが、まぁ、この映画の主人公の親が、古本屋でたたき売りされてたものを買ってきたっていう設定で」
「……何だか、複雑な設定ですね……」
そして、面白いのか、その映画……。
「監督が、その、前衛的な作品を撮られる方で……」
「私、今年で21歳なんです。そろそろ、アイドルって売り出し方も考え時で……個性的な演技もできるって、そういう方向に行きたいんです。だから、何とかこのシーン、私にしか出せない表情を映したくて」
21かぁ。全然若いけど、大変な業界なんだな……。
「作れそうですか?」
「うーん……」
正直、まっっったくイメージが湧かない。
杏奈はどうだろうか。
ん?
何やら、杏奈が俺のシャツの裾を、テーブルの下で引っ張っている。
「ちょっとすみません」
俺は厨房の方に向かった。
杏奈が後ろをついてくる。
「なんだ? どうした?」
「……あのスープなんですけど……」
表情がやけに暗い、というか……なんだ?
「その、言いづらいんですけど……不味いかも……」
「え?」
「何故か分からないんですけど、あの絵と言葉から浮かんでくる味は、ひどくちぐはぐで……何か合わないって言うか……」
「……どうする? 断るっていう手もあるとは思うが」
杏奈が首を振った。
「困ってるみたいですし、藤川社長のご紹介ということでしたら、無碍にもできないかと……」
まぁ、そうだよなぁ。
しかし、不味い料理を作るなんて……。
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