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【症例:カルテ番号0300802ー997ーb】

【症例:カルテ番号0300802ー997ーb】


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※視覚映像、嗅覚刺激、触覚その他からの共感覚症例。その他、調理作業に関してのみ、特異的な感覚運動共応動作の不良を認める。日常生活上の支障としての望まない味覚想起については、光刺激の屈折と彩度調整レンズの着用により一定の抑制効果が認められた。


※また、関連については不明だが、心理士からの報告では、個別式知能検査結果において、言語理解や知覚推理の群指数において、統計的に優位な高さが認められ、同年齢群と比較して抜群の能力を有しているとの結果が示された。 


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 結局、この事例以外に、同じ症例は見あたらなかったが、もう随分長いこと、受診はしていないみたいだ。

 元気に生活していれば、今頃高校2年生か。

 このタイプの才能が、社会で潰されず、健やかに育ってくれたら。そして、望めるなら、その美しさを、素晴らしさを、輝きを、価値を、正しく理解してくれる誰かに出会えていれば。

 それは、どれほど幸せな物語だろうか。


 ***


 昼間の面会のせいだろうか。

 昔の夢を見た。


 私は、自分の舌が、目が、鼻が、嫌いだった。 物心ついた頃から、テレビや雑誌を見てると不意に出てくる料理や食べ物。実写でもアニメでも、食べられる形に加工されたり、食事の文脈で表現されているものなら、なんでも、その味が浮かんできた。そして、匂いや、触感や、音、その他、情報が増えれば増えるほど、口に入れなくてもほとんど正確に、その味を心の中で再現することができた。


 みんな、そうなんだと思っていた。


 小学1年生の頃、弁当持参の日、クラスの子の弁当箱を見て、こんな味、あんな味、これは美味しい、これはちょっといまいち、そんなことをあっけらかんと言って回った。何人かのクラスメイトが、「食べてもないくせに」と怒ったから「食べなくたって分かる」と言い返して、喧嘩になった。


 結局、5人の弁当の味を、細かく言い当てて、その結果「盗み食いした?」「気持ち悪い」と口々に言われ、ちょっとした騒ぎになった。先生にも呼び出され、両親にも連絡がいった。


 次の日から、教室で誰も私に近づかなくなった。2年生になって、クラス替えになるまで続いたし、そのことを覚えている子は、3年生になるくらいまでは、同じ様な態度をとってたんじゃないかな。

 

 それから、口に入れてない食べ物の味の話はしないと誓った。

 

 そうすれば、自分はみんなと同じ。普通の小学生でいられたから。

 

 それでも、不意に目に入る料理の味には、正直困っていた。美味しくても、申し訳ないけれど美味しくなくても、味に注意が向いて気が散ってしまう。視力は低くて近視なのに、

 親に相談して、病院いくつか周り、最後は大学病院の脳神経科と精神科に回された。いろいろ検査をして、味覚が生じる時の実験みたいなこともした。ちょっと、モルモットみたいで嫌だったけど、先生達は優しかった。

 

 最後は脳神経科の先生が特別なレンズを考えてくれて、それ付けたメガネをかけてれば、集中して見なければ、味がそんなに強く浮かんでこないことが分かり、私の大切な相棒になった。

 

 小学3年生の時に、お父さんが他界した。

 

 秋に調子を崩して、春まで持たなかった。

 しばらく、食べ物が喉を通らないくらい、寂しかったけど、今思えば、明るく振る舞っていたお母さんがどれくらいきつかったか。

 

 「美味しいものを食べにいこう」と、小学4年生の誕生日に、以前からお母さんが気になっていたという、隣駅の近くの洋食屋さんに行った。二人になってから、思えば初めてのちゃんとした外食だったかも知れない。

 

 おとぎ話や、西洋の絵本に出てくるような赤煉瓦と、緑のツタと、煙突と、ランタン。オレンジの暖かい光りに包まれて、運ばれてきたお誕生日コースは、運ばれてきた瞬間から、私の全身を幸せな気持ちにしてくれた。メインで運ばれてきたデミグラスハンバーグに、思わず「この味、大好き」と口走った私にも、料理を運んできてくれたお兄さんは笑顔で「鋭いね。見た目も、匂いも美味しそうだもんな」と言ってくれた。

 

 コースのデザートの前に、白髪交じりのお店のマスターが席にやってきて、「たくさん美味しいって言ってくれてありがとう。実は、うちの見習いシェフが多めにスープを作っちゃって。ただ、これが美味しくてね。順番滅茶苦茶だけど、デザートの前に、よければサービスしますが、まだ食べられます?」と言った。私とお母さんは二つ返事で頷いた。

 

 お兄さんが、スープを運んできた。その瞬間のことを、私は生涯忘れないだろう。小ぶりの透明な、深さのあるスープ皿に注がれたそのスープは、店内の柔らかなランプの光りの中、真珠のように淡く光っていた。

 

 「ビシソワーズって言って、まぁ、じゃがいもの冷たいスープだよ」

 

 お兄さんは、その複雑で滑らかなスープの味と裏腹に、一言で、少しぶっきらぼうなくらい簡単に説明した。


 もう、口に運ぶ前から分かり切っていたことだけど、そして、今だったら、もっとちゃんと言葉を選ぶべきだって分かってるけど。

 

 これがどれほど、食べる人のことを考え抜いた料理か、どうすれば美味しいと思ってもらえるか悩んだ末の味なのか、その時間の全部が、体中に流れ込んできて、優しくて、嬉しくて、気づいたら泣いていた。

 私は、お兄さんに、

 

 「今日のお料理で、一番美味しい」

 

 と思ったことをそのまま言ってしまっていた。

 

 「ジャガイモと、ニンニクと、バターと生クリーム。でもそれだけじゃない。色んな材料がちりばめられてる。順番に出てくるの、みんな、正しい順番で、優しく、踊っているみたいに」


 お兄さんが、口をぽかんと開けて、私を見ていた。 


 「私、大人になっても、ううん、お婆さんになっても、また食べたい。このスープを飲みたい」 


 まいったな、とお兄さんが頭をかいた。


 「そんなに褒められたの、初めてだよ」


 お兄さんがひざを突いて、私と目線を合わせた。


 「じゃ、またいつか、俺の料理、食べてくれよな」


 お店の、柔らかな照明のせいもあったのかも知れないけど、その言葉と、お兄さんの笑顔は、これまで見たどんなシーンよりも美しくて、息が止まりそうだった。 


 いつの間にか後ろに立っていたマスターが、きょとんとした顔をした後、豪快に笑った。

 「橋本君、料理人になるしかなくなったな。しかも、一生続けないと。固定客がつくなんて、料理人冥利に尽きるってもんだ」


 でも、次の誕生日に行った時、お兄さんは高校を卒業して、別のお店に修行に行ったと聞いた。 お店の名前も教えてもらったけど、お客さんに料理を出すのはしばらく、おそらく何年か先だろう、という話だった。


 連絡しておこうか、と言ってもらったけど、邪魔しちゃいけないって思うくらいには、もう子供じゃなかった。ついでに、あのスープの味と、笑顔を思い返す度に、胸が苦しくなった。それが初恋と呼ぶものだというくらいにも。


 布団から、体を起こして本棚の方に視線を移した。そこに、大切に保管してある何冊かの雑誌。 必死の受験勉強を乗り越えた、高校1年生のある日、テレビから飛び込んできた、その味。


 予約してたんだよ、私。知らないでしょう。何ヶ月も先まで埋まってて。でも、私の順番がくる前に、あなたはいなくなってしまった。


 だから、うちにあなたがお客さんで通い始めた時は、そんなはずないと思って、本当に他人の空似だと思っていた。

 年齢もさば読んでるし。

 

 ね、橋本さん。

 

 お母さんが倒れた時、私は目の前が真っ暗だった。 

 でも。

 今は、橋本さんが光りを照らしてくれた。


 あの日の続きの、夢のような。


(1002修正)

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