17 肉じゃがの記憶(10)/一致しました!
(前回から) 社長の記憶の肉じゃがについてのレシピに悩んでいた二人が、最後の食材に辿りついて、社長に食べさせる回です
この二週間、二人は営業後のわずかな時間に加え、平日もあーでもないこーでもないと、レシピについての議論を続けていた。
問題はやはり、「酸味」と「うま味」だった。
「酢は、あらかた試したからなぁ……」
肉じゃがに合わせる調味料で、「酸味」を足すのであれば酢、まろやかさやうま味であれば黒酢や熟成させた米酢あたりか……とあれこれ試したが、どれも杏奈のイメージした味にたどり着かなかった。
「あ、社長さんからメッセージ返ってきました」
酸味に関して、何かイメージとして浮かんでくるものはないか、何でもいいので、教えて欲しいと、杏奈は頼んでいた。
ここしばらく、一生懸命思い浮かべていたのですが……あえて浮かぶとしたら、
空、日の光、風通し、緑、開けた空間
何となくですが、こうしたものが浮かぶのですが。まったく見当がつきません。
やはり難しいでしょうか……。
「何か、酢とは違うな……すげーさわやかなイメージ」
「そうですねぇ……」
橋本は、藤川浩二の言葉を思い出していた。
だいぶ近い。でも、何かもう一つ、うちの家の感じが足りないんだよな。
うちの家の感じ。
鎌倉を巡って、食材を集めたのは正解だったはず。酢だけがしっくりこなかった。
「でも、何か、このイメージはやっぱり鎌倉の海の辺りが思い浮かびますね。凄く開放的で、なんだか世界全部の彩度が高くて、明るい。そこにある……あれ、何だろ、この感じは……果物?」
ん?
もう一度、考えてみよう。
うま味はアサリが加えられていた。
仮に、調味料じゃなくて、
酸味を加えてくれる何か。
果物。
ふと、橋本は藤川卓の名刺を取り出した。
薄い黄色の滑らかな紙。
空、日の光、風通し、緑、開けた空間。
「あー!!!」
「わっ、な、何ですか!」
急に大声を上げた橋本に驚き、杏奈はメイド服の裾を踏んづけて転びそうになる。
「分かった! もー、そういうことか!」
「え、分かったんですか?」
橋本は冷蔵庫に駆け寄り、野菜室を開ける。
「これでどうだ? 味のイメージは一致するか?」
「……!」
杏奈は橋本が取り出した果物を見つめ、それをすっと指さした。
「一致しました!」
「よし、社長さんに連絡してくれ、明日来てくれたら、思い出の肉じゃが、食べられますよって。まぁ、予定合わなければ来週とかでもいいけど」
***
藤川卓は、指定された、日曜日の14時きっかりに「三河」に訪れた。
講演会の講師の予定があったそうだが、急遽代役を立ててキャンセルしたらしい。橋本は、再三、別の日程でも、いつでも作れますから、と伝えたが、藤川卓は聞く耳を持たなかった。
「100万、200万ならまったく気にかからない。それくらいの価値が……いや、もっとかな。金ではかれるようなものじゃない。それに、もし違ったなら、また他を当たらないといけないのです。時間は有限で、そして必ずしも、私は潤沢な時間を残しているわけではないので」
カウンターに座った藤川卓は、身分を知ったこともあってか、数週間前に初めて会ったときより、ずっと威厳や迫力が感じられた。
「色々、ヒントをいただいてありがとうございました」
杏奈が、藤川卓にお辞儀をする。
「参考になりました?」
「ええ、おかげさまで……それじゃ、お持ちしますね」
メイド姿も、すっかり様になったな。眼鏡してないから、社長の顔もあんまり見えてないんだろうけど。その分、気圧されずにすむのかも。
そんなことを考えながら、橋本は鍋蓋を開け、器に肉じゃがをよそった。
ふわり、と店内に、砂糖や醤油の柔らかさに、みずみずしい酸味が入り交じった匂いが漂った。
「……!」
カウンターの藤川卓が、音を立てて椅子から立ち上がった。
杏奈がお盆に乗せて運んできた肉じゃがを、藤川卓は食い入るように見つめた。
「この匂い……」
「はい、レモンとアサリ出汁の肉じゃがです」
杏奈の穏やかな声を聞き、藤川卓は促されるように、椅子に座り直した。
「鎌倉野菜のジャガイモ、人参、タマネギ、お肉は葉山牛のバラです。それから、江ノ島近辺の海で採れたアサリの出汁と、湘南の海沿いで採れたレモンがアクセントになっています」
「レモンと、アサリか……」
「はい。私と橋本さんは、藤川さんのご実家の近く、鎌倉を巡って、藤川さんのお母様がどんな食材を使われていたのかを考えてきました。野菜と、海辺の食材、それから……湘南の辺りはレモンを作っているという地域があると聞きました。これが一番分からなかったんですけど、海の香りとさわやかな酸味が、肉の柔らかな甘みを強めながら、そっと引き締めています。海辺の、鎌倉の空気を凝縮したような、朝ご飯にもぴったりな煮物です」
さあ、どうぞお召し上がりください。
杏奈がお辞儀をして、藤川卓を促した。
藤川卓は、どこか遠くを見るような目で、肉じゃがを見つめていたが、一度目を閉じた後、両手を合わせ、「いただきます」と言って、箸を持った。
一口、二口、三口。
藤川卓は、肉じゃがを噛みしめながら、再び目を閉じた。
「ありがとう」
そう言って藤川卓は、不意に席を立ち、「三河」の玄関の引き戸を開けた。
「浩二、香苗、入りな。お前等も食べたいだろ?」
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