⒔ 肉じゃがの記憶(6) /心当たりはないですか?
(前回から)鎌倉の食材探し中、結局尾行され続けた二人は、誰に追われていたか分からないまま、東京に戻ってきたのでした。
江ノ電の腰越駅で降りると、橋本は杏奈に前を歩くように指示した。
後ろから、不審者に襲われないように、という配慮だ。ただ、昼下がりの腰越駅周辺は小町通りや江ノ島ほどではないものの、観光客や地元住民の往来が多い。ここで白昼堂々、何かを仕掛けてくるとは思えなかったが、念には念を、と橋本は警戒を怠らなかった。
何せ、何故尾行されているのか、見当がつかない。
「杏奈、お前、男にストーカーとかされてないよな?」
「私ですか? そんなのないですよ。学校でも目立たないタイプですし」
「やっぱりそうなんだ」
「……なんか、自分で言っといてなんですが、少し引っかかりますね、その言われ方」
「学校でも眼鏡着けっぱなしなんだろ?」
「何にも見えないですから、授業に差し障ります。それに友達にも、眼鏡は外さない方が良いって言われてるので……そんなに眼鏡で変わります?」
むむ。
それは若干気になるな。
「友達って、男?」
「女に決まってるじゃないですか。え? どういう意味ですか?」
「いや、やっぱりそうなんだ」
「……もう良いです……それより……」
ちらりと、杏奈が橋本の背後に視線を送る。
「……いますね、さっきのサングラスの人」
「確実に尾行されてるな……。とりあえず、この先の魚市場……っていうか、まぁ魚の卸業者なんだけど、そこ行って、そこに併設の食堂あるから、シラス丼食って東京帰ろうぜ。県外までは追ってこないだろ……」
「シラス丼!」
杏奈が目を輝かせる。
「……お前さ、怖くないわけ?」
「橋本さんがいますから」
「俺、料理はできるけど、別に喧嘩とか強くないぞ……」
橋本はため息をつきながら、以前、今の職場で習った護身術の小手返しのやり方を思い出していた。
***
結果として、魚介を確認したのは正解だった。
「橋本さん、多分これです」
杏奈が赤いネットにぎっしり詰められたアサリを持ち上げる。
うま味と海の気配のイメージが、アサリとぴったりだと言う。一般に肉じゃがに使われる食材ではないが、醤油と酒と味醂、砂糖に加えて、出汁としてアサリの煮汁を使ったのか。実際、肉じゃがの他の材料と相性は悪くない。
悪くないが、正直、見当もつかなかった。和食は必ずしも得意分野ではないが、あの社長のメモと聞き取りから、アサリに一人でたどり着くのは困難だっただろう。
「でも……変ですか? 味のイメージはアサリなんですけど……」
「いや、大丈夫。合うんだよ。アサリとジャガイモって。まぁ、でも流石は良家の朝ご飯。洒落たことするなぁ。それじゃ、ご褒美だ。シラス丼食べようぜ」
だいぶ回答に近づいたことと、魚市場に入ってからサングラスの男の姿が消えたことで、橋本は少し気分が軽くなっていた。
ラストオーダーぎりぎりの14時に魚市場併設の食堂に滑り込み、シラス丼を食べ終える。
やっぱり、産地で新鮮な食材をシンプルに食べるのは、美味い。
橋本の明るい気分は、満面の笑みを浮かべる杏奈の背後の窓に、サングラス男が見えた瞬間に吹き飛んだ。
「やっぱいるぞ! あいつ!」
気持ち悪すぎる、捕まえて話を聞くしかない。 橋本は慌てて店の外に飛び出し、窓の方に回り込んだが、すでにそこには誰もいなかった。
***
「橋本さんこそ、心当たりはないんですか?」
夕暮れの横須賀線。鎌倉から東京までの小一時間。杏奈と橋本はサングラス男の心当たりについて話し合っていた。
「俺? 俺をつけ回したってしょうがないだろ」
「実は、昔何か恨みを買ったとか……あ……だ、誰かから、こ、恋人を奪ったとか……」
橋本は、黒縁眼鏡を通した訝しげな視線を感じた。
「誰からも奪ってないし、そんな相手はいない。あれ、そこそこ歳いってるよな……そんなおっさんにつきまとわれる筋合いは……ん?」
「そっか……良かったぁ」
「何が良かったんだ? 何にも良くないぞ」
「何でもないです。気にしないでください。あ、東京着きますよ。神田まで乗り換えです」
ほんと、危機感がないのか……何か上機嫌だな……。
いや、しかし……困ったな……。
あの男、本当にもう付いてきてないだろうな。
こいつ、一人にして大丈夫だろうか。
もう少しだけ一緒にいてやるか。
「とりあえず三河まで送るけど……お前、夕飯どうすんだ?」
「え?」
きょとんとした顔の後、何らかの期待をはらんだ光が瞳に浮かぶ。
「厨房貸してくれるなら、今日買った食材で肉じゃが作っちまうよ。それで夕飯にしたら良いだろ」
「良いんですか!」
「そりゃ良いけど。ってか、お前何か予定ないの?」
「この後も何にもありません!」
神田の外れの路地の方へ、一際軽い足取りで杏奈が橋本を先導するように歩いていく。
「青春真っ盛りの高校生が、それでいいのかね……」
「……何が青春かは、人それぞれじゃないですか?」
杏奈は不意に眼鏡を外して、橋本の方をくるりと振り向いた。
ベージュのスカートがふわりと揺れて、夕闇の中、ぼんやりとした都会の明かりに照らされる。
「私は、今、凄く楽しいですよ」
橋本は一瞬歩みを止めて、杏奈の姿に見入ってしまった。
「……変な奴だな。ほんと」
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