12 相続と肉じゃが(5)/江ノ電と子ども扱い
(前回から)社長の依頼で、社長の記憶と取り戻す?ための肉じゃがの素材を探す二人。小町通りから江ノ電まで移動してきましたが、やはり誰かに備考されているようで……
「立派な野菜市場ですね!」
「そ、ちょっとしたもんだろ?」
若宮大路をしばらく歩き、商店の密度が薄れ、少し海が見え始めたところに、野菜市場はあった。
藤川卓の実家が扇ケ谷だとすると、恐らくは使用人だろうが、日々の食材は若宮大路近辺で調達していただろうし、特に野菜はここに買いに来ていたのではないか。
俺は藤川卓の話を思い出しながら、藤川家の食にまつわる生活をイメージしていた。もちろん、素材となる食材は、なるべく、実際に藤川家で使っていたものが理想だろう。完全に同じものでなくても、近い素材を使えば使うほど、味の再現はしやすくなるはずだ。
「ジャガイモ、人参、タマネギはここで買っていこう。実際、どう?」
俺は杏奈に、肉じゃがの素材を手渡す。
「すっごく、近い感じがします! 多分これで間違いないです!」
杏奈は、野菜の匂いを嗅ぎ、触感を確かめた。にわかには信じ難いが、もう頭の中で肉じゃがの味が広がっているのだろう。
「それじゃ、後は若宮大路を引き返しながら、小町通りに向かうぞ」
肉は鎌倉じゃなければ、というものでもないが、調味料はこの辺りの商店独自のものがある。特に、杏奈の言っていた「酸味」は、確か独自のお酢を作っていた店があったはず。
「小町通りでお昼ご飯ですか?」
「いや、ごらんの通り、この時間は滅茶苦茶に混むから、レストランとかかなり並ぶぞ。だから、小町通りは見て回るだけ。江ノ島の方向に江ノ電で移動して、魚市場の近くでシラス丼食べようぜ」
「ひゃぁぁああ! ぜ、贅沢ですね……!」
本当に、幸せそうな顔で笑うな、食べるの好きすぎだろう。
「あ、ちゃんとお金出しますから、さっきの甘味処のも」
「いや、いい。経費で請求しようぜ、社長さんに」
「えっ! そんなこと……できるんですか?」
「メモに、材料含めて必要経費はいくらでも出すって書いてあったじゃん。俺も昔、結構いろんな金持ちに会ったけど、その中でも頭一つ抜けてるよ。金持ちのランクが違うんだから、こんなん余裕余裕」
「そういうもんなんですか?」
「経験上、ね。あの手の人は……自分にとって価値のあることや、替えの利かないスペシャルなものには、ちゃんと、惜しみなく、綺麗に金を出すよ」
ひぇー、大人だなぁ……とつぶやいたのが聞こえ、俺は密かに満足した。
そうそう、こういうのは、子どもには分からんだろう。
「確かに、橋本さんの料理は、替えが利かないですね」
杏奈が満足気に頷く。
何を言ってるんだか。
「杏奈の味覚に決まってるだろ。俺の料理なんて、いくらでも替えが利くよ」
何気なく言ったつもりだった。
実際に、自分がいなくなった後も、かつて腕を振るった有名料理店は、何事もなかったように、相変わらず、今に至るまで、有名料理店のままだった。
一定の基準の料理ができる人間なんて、たくさんいる。自分がさほど特別じゃない、なんて、多くの人が成人する前に気づくこと。
そんな当たり前のことに、少し遅く気づいただけ。そう思っていた。
「そんなわけないじゃないですか!」
道を行く観光客が、雑踏の中ちらほら振り向くほど、杏奈の声は思いの外大きかった。
「橋本さんの料理の味は、誰にも作れません。特別です。私が保証します!」
「わ、分かったから! 大きな声出すな。そんなムキになるような話じゃないだろ」
「いえ、これは大事な話です。まさか、本当にそう思ってるんですか? ぜんっぜん違いますよ?」
あれ?
ムキになる、というより、なんだこの顔?
びっくりしてる?
「え、普通に驚きです……ていうか、橋本さん、自分の料理の味、分かってます?」
「なんだよ、俺は……まぁ、それなりに勉強した料理人だぞ。自分が美味しいもの作ってるって……そりゃ、杏奈くらい味覚が鋭けりゃ……」
あ。
そうか。もしかして杏奈は……。
考えを巡らそうとしたところで、橋本は自分と杏奈が往来の邪魔をしていることに気付いた。
「ほら、行くぞ」
「わっ」
橋本は、慌てて杏奈の手を引っ張り、小町通りの方へ雑踏を抜けていく。
「あ、あの」
「ん?」
「あ、いえ……何でも……」
「?」
ふと杏奈の視線の方を見ると、2人がソフトクリームとチョコレートを主力商品にした、若者向けの新しい店舗の前にさしかかっていることに気づいた。店柄、カップルが多い。みんな手をつないだり、店の前のベンチで肩を寄せ合ったり……。
げ、やべ。
ひょいと手を離し、ごほんと咳払いをした。
その時。
まただ。
俺は、立ち止まって周囲を見渡した。
「? どうしたんですか?」
「……なんか、さ、誰かに見られてないか?」
「え?」
「視線を感じるんだよな……鎌倉入ってから」
「この辺り、知り合いの方とか、いるんですか?」
「だったら声をかけてくるだろ。なんて言うか……いや、まぁいいや。とりあえず、はぐれないようになるべく近くを歩いてくれよ」
「……なるべく近く、ですか……その……それじゃ……」
杏奈が近づいて手を差し出す。
「いや、手は繋がなくていいから。小学生じゃあるまいし。迷子にはならないだろ?」
「わ、分かってます! さっき引っ張られたから、一応確認しただけです!」
***
俺と杏奈は、藤川卓の話からイメージされた肉じゃがの酸味について、その候補となる食材を求めて小町通りを探索した。結局、個人商店で売られていた梅干しとビネガーを購入してみることになった。ただ杏奈のイメージとしては「悪くないんですけど……うーん」というやや芳しくないものだった。
鎌倉駅に引き返し、江ノ電で江ノ島方面へ向かった。幸い、ラッシュ時の満員電車、というほどではなかったものの、かなり密着して立たざるを得ない程度の混み具合だった。
俺が海側のドアの前に立ち、杏奈がその後ろに立つ。
俺たちの視線は、電車の窓の向こうに広がる海に吸い寄せられた。
「……綺麗ですね……」
「同じ海なのに、ここはちょっと特別だよな」
青から白に溶けていくようなグラデーション。
明るく澄んだ薄水色の光が視界に散りばめられて、輝度が一段上がったような。
「あっ」
電車が揺れ、少しバランスを崩した杏奈が、背中に抱きつくような形になる。
「お前……ちょっと……」
慌てて杏奈の方に向き直り、体勢を整えて距離を戻そうとする。
「すみませ……」
次の瞬間、俺は杏奈を抱き寄せた。
「は、はし……はしも……」
突然のことに、顔を真っ赤にして口をパクパクさせながら、杏奈が身動きできずにいる。
いや、悪いと思ってるけどさ。やべーんだよ。
俺は杏奈の耳元で囁いた。
「……斜め右後ろにいる、サングラスかけた小太りの白いTシャツの奴。明らかにこっちの様子を見張ってる」
「え?」
***
緊張した様子の橋本さんの声に、私は抱き寄せられたのとは別の意味で動揺した。
「次の駅で降りるから、降りた後、魚市場まで、後ろを警戒しながら移動しよう」
橋本さんの胸の中で、小さく頷く。
……尾行されてるのも気になるけど……。
橋本さん、自分がやってること、分かってます?
超鈍感なのか、滅茶苦茶女性慣れしてるのか、完全に子供扱いなのか。
……何だこの3択、どれもこれも駄目だ……。
(1001修正)
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尾行しているのは誰なのか……肉じゃがは再現できるのか、再現した先に待ち受ける記憶とは??というところで、もう数回、肉じゃが編が続きます。