10 肉じゃがの記憶(3)/鎌倉に行こう
はからずも鎌倉旅行……食材のヒントは見つかるのか??
(杏奈はデート気分)
営業後に賄いを食べるときと同様、杏奈と橋本はカウンターに並んで座った。
杏奈の幸せそうな「いただきます!」と「美味しいです!」の連呼に、橋本は結局満足してしまい、自分もたいがい単純だな、と苦笑した。
「ごちそうさまでした」
「はい、お粗末様……」
まぁ、良い朝ごはんだった……杏奈も満足そうな笑顔で……。
「じゃなくて!」
「へ?」
……何をやっているんだ俺は……そうだ、俺はこいつに幸せな朝食を提供するためにここに来たんじゃない。
肉じゃが、肉じゃがを作りに来たんだ。
橋本は気持ちを作り直し、杏奈に問いただす。
「で、どうなんだ? 肉じゃが」
「あ、とってもおいし……」
「じゃなくて、あの社長の探してる味と比べてどう?」
「あ、はい、匂いから何から全然違います」
橋本は、がっくりと肩を落とした。
「早く言えー!!!! お前、匂いの段階で、、もっと早く気づいてたろ!!! 止めろよ!!悪質だぞ!!やってること!!!」
「だ、だって……これはこれで滅茶苦茶美味しそうだったから……どうしても食べたくて……橋本さんの朝ご飯……」
「むむ……」
くそ……料理を期待されて、褒められるのは弱い……。
橋本はため息をつきながら、で、どう違うんだ? とつぶやいた。
***
時計は8時30分。
店の中央のテーブル席を動かして、杏奈が店の奥からホワイトボードを引っ張ってきた。
そういえば、時々、その日の料理をホワイトボードに書いてたな、三河は。
杏奈は社長のメモをホワイトボードに磁石で止め、それからスマホの画面と見比べながら、ホワイトボード用マジックで縦軸の矢印、横軸の矢印、そして斜めの矢印を書き込む。それぞれ、横軸が甘みー塩味、縦軸が酸味ー苦み、斜め奥行きがうま味(濃淡)と横に注釈が書き足された。
どうもいくつか社長に補足で質問をしていたらしく、早朝にも関わらず速やかに返事がきたらしい。
そして、橋本は杏奈の特異な能力を再び目の当たりにした。
言葉やレシピから正確に味をイメージする力。
「単純化すると、橋本さんの肉じゃがは、ここら辺でした」
8象限の中央から、甘みとうま味が強めの辺りに球体が描かれる。
「ちょっと、塩味と甘みは濃淡でもう一次元作りたいんですけど、4次元になっちゃうので……それで、このメモと、社長さんから聞き取ったイメージだと、社長さんの肉じゃがの味は、もっとこっちで、こう……この辺りだと思います」
杏奈が赤いマジックで球体を描く。
そこは、よりうま味の軸と酸味の軸が強いところに位置していた。
「そういう味が、頭に浮かぶのか?」
「頭って言うか、舌って言うか……」
言葉と味がつながってるのか。
普通の人間とは比べものにならないくらい、強く、鮮明に。
食べた料理の味を繊細にクリアに言葉で表現できる。それが、店でのあの活躍だった。
その逆を、今俺は見せられている。
言葉から、味を再現してる。
「それから、社長さんにいくつか質問したんです」
「質問?」
「はい、イメージなんですけど、海ですか、山ですか。新しいですか、古いですか、あと、堅いですか柔らかいですか、静かですかうるさいですか」
「なんだそりゃ……」
「何か、材料とか調理法のヒントになるかな……と思って、それで、海か山なら海、新しいか古いかなら、古い、熟成したイメージ、そして柔らかさと、うるささと堅さが少しずつ混ざっているそうです」
「そんなの聞いたって……一体何の意味があるんだ?」
杏奈が、眼鏡のズレを人差し指で直した。
「ここから浮かぶイメージは、何か魚介が加えられているのと、調味料で少し熟成を要するもの、最後に調理法は結構加熱して焦がしたり煮崩したりしているんじゃないかっていうことなんです」
げ、何だそれ。
俺には全然分からないが、杏奈の中にはくっきりと味のイメージが浮かんでるのか。
「うま味と酸味っつったって、色々あるかが……魚介と……うま味と酸味を増す調味料……」
あっ。
ふと、橋本の脳裏に、江ノ島と鎌倉の風景が浮かんだ。
「……杏奈、今日一日暇?」
「え? あ、はい。予定はないですが」
「じゃ、金出すから、付き合ってくれ」
「か、金で付き合う? 私に何する気ですか! も、ものには順序が……それに、お金なんて……いらないですから……」
えー、どんな変換されてるんだ。味覚以外、本当にわけわからんなこいつ。
いや、俺もちゃんと伝わるように、日本語の練習しようかな……。
「鎌倉に食材調査に行くから、ご同行願います。あ、病院の女将さんにもちゃんと断っといて」
***
日曜日の北鎌倉駅周辺は、細い道路脇の狭い歩道を歩く沢山の観光客で賑わっていた。
この辺は、綺麗なんだけど、やっぱ平日の午前中に来るのが趣があっていいな。でも、雰囲気はいつ来ても柔らかく、深みがある。
橋本は、北鎌倉の空気を吸い込んだ。
橋本と杏奈は、県道21号線を鶴岡八幡宮の方向へ歩き始めた。落ち着いた色合いの町並み、カフェや土産物屋、風に揺れる木々、その先に見える建長寺の天下門、図らずも橋本の中で観光気分が高まってくる。
電車に乗っている時間は、あっという間だった。肉じゃがの味のイメージについて杏奈が事細かに話し、橋本が調味料や分量、調理の手順を伝えると、杏奈が味をイメージし、それよりももう少しこんなイメージで、と再び話すことを繰り返すうちに、橋本と杏奈は夢中になった。
東京駅からのJR横須賀線でたまたま座れたこともあり、二人は危うく北鎌倉を乗り過ごすところだった。
そんな杏奈が一転、駅を降りてから静かになったことに気付く。
ふと視線を感じて、ド近眼黒縁メガネで何やらもじもじとしている杏奈の方をチラ見する。
「……結構、カップル多いですね」
口を開いたと思ったら、急に何の話だ?
「ああ、観光地だからな。そりゃそうだろ」
「……何か、私達も怪しまれちゃいますかね。えへへ。こ、困りますね」
困っているという言葉の割に、何か笑顔に見えるが、一体何なのか。
まぁ、確かに困ると言えば困る。
「確かに、子どもを大人が連れ回してるように怪しまれないか心配だ」
「こっ子ども?! 私はもう17です!」
「未成年じゃねーか、立派な子供じゃん」
「うー! もう全っ然ダメ! ほんとひどい! もう知りません!」
あ、いじけた。やっぱり子供だ。
まぁいいや、古都鎌倉の空気を静かに楽しもう。
ああ、心が洗われるなぁ。
11時か、昼前に、少し小腹が空いたなぁ……。
杏奈は何やら、ドンカンだのデリカシーだの、ぶつぶつと言いながら俯いている。
「行きつけのわらび餅の店あるんだけど、食べる?」
「やった! 食べます! 食べます!! どこですか!!」
杏奈はスイッチが切り替わったように満面の笑顔で橋本を見上げた。
つられて橋本も笑ってしまった。
ちょろいなぁ。
でも、何ていうか、良い奴だよな、こいつ。
ここまで読んでいただいてありがとうございます!
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引き続きのんびりした二人と、料理の話と、ちょっとミステリー?が続きます。