9 肉じゃがの記憶(2)
ミステリーパートの2話目になります、夜は飯テロ注意になります(笑)
藤川卓の母は、長男の卓、次男の浩二、長女の香苗の3人に、財産分与についての遺言状を残していた。
その財産分与の中でも特に焦点だったのが、北鎌倉は扇ケ谷の一角に立つ、藤川家の屋敷だった。
杏奈はきょとんとしていたが、橋本は土地の名前を見て鳥肌が立った。橋本は以前その近辺のレストランに出入りしていた時期があり、冗談みたいな土地の値段を聞いた。どの程度の大きさか知らないが、数億は下らない資産価値だろう。
屋敷の相続が、子供たちのトラブルの種になるだろうからと、ある日の朝、長男である藤川卓は高齢の母親に屋敷に呼ばれ、そこで母親が作った朝食を取りながら一対一で、遺言状の保管場所を聞いた。
その時、次男の浩二と長女の香苗が突然現れ、自分たちにも保管場所を教えろと、騒ぎ立てたらしい。口論になり、卓と浩二がもみ合いになり、屋敷の階段から転げ落ちたそうな。
次に藤川卓が目覚めた時は、病院のベッドだった。3日ほど昏睡状態だったらしいが、奇跡的に脳の損傷は認められず、1ヶ月ほどのリハビリで退院が出来た。身内のことでもあり、記憶も曖昧だったので、階段から滑り落ちた事故、という話で顛末がついた。
退院の準備が整ったとき、ふと、藤川卓は気づいた。
遺言状の保管場所が分からない。
母親にもう一度聞かなくては。そう思っていた矢先、屋敷の使用人から「奥様の容体が……」と連絡が入った。
病院の母親は、意志の疎通が難しい状態だった。
遺言状の話を聞き出すことは出来なくなった。
唯一、藤川卓の中に残っていた記憶は、遺言状の話をする前、母親が作った肉じゃがの味と匂いだった。
「プルースト効果」っていうのがありますがね。
担当の脳外科医から、半ば雑談として教わったのは、匂いや味をヒントに、記憶が蘇ることがあるという話だった。
もう一度、それに触れることができれば、あの日の記憶が戻るのではないか、他にすがるもののない藤川卓は、最後の望みを肉じゃがの記憶に賭けていた。
***
日曜日の午前7時30分。
橋本は、にこにこしながらカウンターに座る杏奈の視線を感じながら、フライパンを握っていた。
ベーコンをじっくり炒め、脂を引き出してから、割った卵を落として、少し火を強め、再び火を弱めて蓋をした。
「い、良い匂いですね……」
杏奈は母親が倒れてから、朝ご飯はコンビニか近所の牛丼チェーン、昼は菓子パンやサンドイッチ、夜はスーパーの値下げ弁当という、くたびれた独身サラリーマンのような生活を続けていた。
味見や賄いを異様に美味そうに食っていたのは、食生活の影響じゃないか。本当に俺の料理、美味いんだろうな。そんな疑念が頭をよぎるほど、橋本はカウンター越しの刺すような視線を感じていた。
橋本が杏奈の朝ご飯を作るのは初めてだった。
「今日は遅いですし、早速明日作戦会議しましょう! 善は急げです。私、7時には起きてますから、あ。朝ご飯としてとりあえず肉じゃが作ってみません? 材料は用意しておきますから。私、朝お腹空いてる時が、一番味覚が研ぎ澄まされてるんです。きっと、肉じゃがの謎に近づけるはずです。橋本さんも明日は休みですよね?」
昨晩の杏奈のすさまじい早口が脳内をリフレインする。若干疲れていたのもあって、その時は、じゃあ7時過ぎに来るわ、と言ってしまったが……。
じゅるる。
……涎、すすった?
あいつが、朝ご飯作って欲しかっただけじゃねーのか? 何か騙された気分だな……。
橋本はため息をつきながら、茹でこぼしたほうれん草を切って器に盛り、鰹節を乗せつつ、本日のお題である、アルミの雪平鍋でコトコトと煮込まれている肉じゃがに視線を落とす。
じゃがいも、人参、タマネギ、豚こま、煮汁はしょうゆ、酒、みりん、砂糖は三温糖。極めてシンプルな組み合わせで作った基本の肉じゃが。そろそろ、じゃがいもにも人参にも火が通ったか。
「んじゃ、出来たから、盛りつけ配膳よろしく」
「承知であります!」
料理は作れない、というか、作らせてはいけない、厨房が破壊される。だが、出来上がった料理を盛りつけたり運んだりは問題なくできる、というより綺麗にこなす。
何で料理だけあんなにポンコツなんだろうな。
杏奈は割烹着姿で、楽しげに肉じゃが、ベーコンエッグ、ほうれん草のお浸し、炊き立ての白米を器に盛りつけ、カウンターが朝ご飯会場になる。
あれ、何か、割烹着の下、以外とおしゃれだな。
ギンガムチェックのブラウスに、ベージュのスカート。こないだまで、てろてろしたスェットと色あせたジーパンだったような。そういや、朝から、薄目だけど、ちゃんと化粧もしてるっぽい。まぁ、ド近眼眼鏡で全部台無しだが……。
配膳を終えた杏奈は私服の上に着ていた割烹着を脱いだ。
「なんか、服装は変えたのか?」
「え?」
「雰囲気が変わった気がする」
「……井上さんに、少しアドバイスしてもらって……」
井上は、杏奈のメイド服をプロデュースしたた貸衣装兼美容室を営む橋本の知人である。
へー、何だ、その後もやりとりしてるのか。女同士、仲良くなるもんだなと、橋本は変に感心した。
「まぁ、後は眼鏡がなぁ……」
「外すと全然見えないので……でも……外した方が良いですか?」
すっと、杏奈が眼鏡を外し、ひょいと橋本の方にステップを踏んだ。
「わっ!」
突然、抱きつかれそうなほど近づいて来た杏奈の顔に驚き、橋本は杏奈の両手を掴み、距離を保った。
「あっ、す、すみません……だから、眼鏡した方がいいんですよ」
杏奈は赤面しながら、慌てて後ずさった。
「……ああ、俺が悪かった。眼鏡かけててくれ……」
橋本は頭を掻きながら厨房の方に視線を送った。
読んでいただいてありがとうございます!
ほんのりミステリー?パートに入りますが、基本、橋本が杏奈にご飯を食べさせ続けるのは変わりません。
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