セカンド バレンタイン
冷蔵庫でかためたチョコレートを皿にのせ、炬燵でゲームをしているタカオの前に出した。
「はん?」
両手でコントローラーを握ったまま、タカオが顔をあげる。
「チョコ、作った」
「バレンタイン、だから」
少しだけいびつなハート形のチョコをひとつつまみ、タカオの口に放り込んだ。YouTubeを見ながら二時間かけて作った。板チョコを細かく刻み、湯せんし、生クリームを混ぜ練りこんだ。そりゃあ有名店のチョコにはかなわないけれど、十分おいしくできたと思う。
少し大きすぎただろうか。タカオは口の中を唾液でいっぱいにして、しばらくチョコを転がしていた。
「フツーにチョコ」
「そりゃそうでしょ。板チョコから作ったんだもの」
「え? 俺、べつに板のまんまでよかったのに」
一気に疲れた。ボカンと一発タカオの頭を殴ってやりたかったけれど、そんな風にわかりやすく怒ったりしない。そのかわり、あたしはいたずらっぽく笑って、タカオの愛してやまないコントローラーを奪ってやった。
「何すんだよ」
タカオがほっぺたをふくらませる。その口に、もうひと粒大きめのチョコを押し込んでやる。
「ほぎゃぎゃお」
返せよとタカオは言ったのだろうけれど、チョコまみれの口では何を言っているかわからない。
「なに?」
耳の横で手を広げ、聞こえないふりをしてあたしは笑う。タカオの指先が届くか届かないかくらいのぎりぎりのところでコントローラーを押したり引いたりして遊んだ。まるで猫をじゃらしているみたいだ。
「お、い~。マジで返せよ」
ごくんと喉にチョコを流し込んで、タカオが叫んだ。どうにもこうにもコントローラーに手が届かないとわかると、今度はあたしの腕をたたいて揺らした。
しようがない。そろそろ許してやるか。
手のひらに戻してやると、タカオはべそをかいたあとの子供みたいな顔をして、をコントローラーを握りしめ、今度こそとられまいと隠すようにおなかに抱えた。
口のまわりにチョコがついている。本当に子供みたいだ。
「板チョコ刻むの、すごい時間かかった」
そんなこと、タカオにとってどうでもいいことだとわかっていたけれど、ひと言吐いてタカオのとなりに座った。そっと肩を寄せると、タカオはあたしの背中に腕をまわし、あたしをぎゅっとつかまえたままコントローラーを握り直した。
タカオが釘付けになっている画面には、不可解な模様や光線がいくつも弾けていた。
同棲して、はじめてのバレンタイン。
もう二度とチョコは作らないと誓った。
タカオと暮らしてわかったこと。それは、タカオが極度のインドア派で、面倒くさがりやだということだ。
「一緒に暮らそう」
そう言ったのは、タカオの方からで、あたしも賛成し、二人でアパートを借りた。つきあって一年、毎日のようにどこかで待ち合わせて、レストランや居酒屋で夕食を食べ、お互い別々の場所に帰るのがしんどくなりはじめていた時期だった。それに、いずれ結婚するのなら、将来のために節約もしたかった。
家賃は半分になった。家事は二倍になった。毎日の食事作りや洗い物、洗濯物だって二人分になった。仕事で遅くなった日くらい、外で夕飯をすませたかったけれど、タカオは重い腰をあげようとしない。
「簡単でいいよ」
「ウーバーでいいじゃん」
やさしさのつもりだろうか。そう言って、タカオは得意げにポチッとハンバーガーを注文する。この店なら駅前にあるのに。帰りにテイクアウトしてくればよかった。そうすれば、高い送料も払わずにすんだのに。ため息が出た。
妊娠が分かった時、うれしいよりも、面倒なことになったという気持ちでいっぱいになった。けれど、子供ができれば、タカオも変わるかもしれない。今はソファにへばりつきゲームばかりしていても、子供が生まれれば、まわりが驚くほどのイクメンになって、まめまめしく子供の世話をするかもしれない。
ひそかに期待して、妊娠したことを告げると、
「おお、俺もとうとう父親かぁ」
感慨深げにタカオは言って、「名前、決めなきゃな」といきなりスマホで子供の名前を調べ始めた。それよりも先にあたしたちの関係をちゃんとしておかなければいけないのではないか。お互いの両親に挨拶し、籍を入れる。そうでないと生まれてくる子は父なし子になってしまう。
「陽と翔とかそういう字が人気らしいよ」
「やっぱ画数はみておかないとな」
あたしはつわりでそれどころではなかった。それに、最近おしりにおできのようなものができてしまい、座ったり、寝たりするたび当たって擦れ、痛みが走った。
「心配することはありませんよ」
「妊娠すると、女性の身体は変わるものだから」
産婦人科医はそう言った。おできは日に日に大きくなっていったけれど、処方された軟膏をぬると、痛みは和らいだので、自然と気にならなくなった。
安定期に入った。つわりもおさまり、食欲が増した。いつだってあたしは空腹でたまらない。仕事から帰ってきて、キッチンに立つ。夕食を作らなければいけないのに、まな板の上に食材を並べただけで、もう食欲を我慢できなかった。
トマトはトマトで食べられる。
きゅうりはきゅうりで食べられる。
レタスはレタスで食べられる。
それなのに、あたしはそれらを洗って、刻んで、サラダを作ろうとしている。改めて考えるとそれはとてもおかしなことだった。なんのためにそんなことをするのか。考えれば考えるほど意味がわからなくなった。
タカオだって、前に言っていたではないか。板チョコを刻み、生クリームを混ぜてわざわざ別のチョコを作ったあたしに、「板のまんまでよかったのに」と。
そうだ。このままでよいのだ。そう考えたら、急に気持ちが楽になった。包丁をおいて、目の前のトマトに手を伸ばした。まるのまま口に運び、ガブリと歯を立てる。酸味のある真っ赤な汁が顎を伝い、真っ白なまな板の上にこぼれた。
無性に乱暴な気持ちになって、あたしは次々野菜を口の中へ放り込んだ。きゅうりにレタス、ブロッコリーも、房ごとわしづかみにしてかぶりついた。ドレッシングなど必要なかった。いますぐこの空腹が満たされるなら、どうでもよかった。
野菜を全部食べきってしまうと、冷蔵庫からロースハムを出した。パッケージに穴をあけ、一枚ずつはがすこともしないで、重なったハムをギュッと噛みしめた。
おなかがいっぱいになると、ようやく我に返った。夕食を作る途中だったことを思い出し、まな板の上に散らばった野菜のくずをかき集め、ガラスの器に盛りつけた。見た目が少しみすぼらしくなってしまったけれど、まあいいだろう。今日はイベントが開催されると言っていたから、タカオはゲームをしながら夕食を食べるはずだ。少しくらいサラダの体裁が悪くてもきっと気づきやしない。
この頃、だいぶおなかが大きくなった。時たまグルルと動いたり、蹴られたりすることもあって、本当にあたしの中でもうひとりの人間が息をしているのだなあと思う瞬間があった。とても不思議で、愛おしくもあった。
どうやらおなかの子は男の子らしい。
「俺、息子とキャッチボールするの、夢だったんだよね」
タカオは相変わらずのん気だ。最近、おへそのまわりに生えるようになった黒い毛にあたしが悩まされていることなんて知る由もない。妊娠でホルモンバランスがおかしくなっているらしい。毎晩カミソリで剃っても次から次へと生えてくるので、とうとうあたしは剃るのをやめた。無事出産し、身体が元通りになればきっとおさまるだろう。毛はどんどん濃くなり、腰回りにも、おしりにできたおできにも、どんどん広がっていったけれど、あたしは気にしないようにした。そうでもしないと、あたしは変わり果てた自分の身体をどうにもやり過ごすことができなかったから。
パンパンにはったおなかのせいで、足の爪が切れなくなった。今や伸び放題も爪は先がカギのように尖っていて、靴下を変えてもまたすぐに穴があいてしまうので困った。
身体に生えた黒い毛は、今や全身に広がっていた。
「すげえな」
「きっと身体が自然と胎児を守ろうとしているんだね」
タカオは妙に納得していたが、気味が悪いのか、あたしの身体に触れてくることはなかった。おなかは弾けそうなほど大きくなり、あたしは仰向けに寝ることができなくなった。横向きでは、どうしても眠りが浅くなり、睡眠不足の日が続いた。
眠れない夜、あたしはベランダで月を見て過ごした。ストレスがたまっていて、わけもわからず涙が出た。これが、マタニティブルーなのだろうか。
どうしてあたしばっかり。タカオは何も変わらないのに。
「ウォー」
声を出して泣いてみたら、自分でもびっくりするほど大きな声が出てしまった。叫び声というより、遠吠えに近い、おなかの底から湧き出た寂しくて、やるせない叫び。
吠えたらすっきりした。
近所迷惑だから、もう二度と声をあげたりしないつもりだけれど。
産休に入ると、あたしは昼間もだらだらと寝て過ごすようになった。重たい身体では、何もやる気が出ない。掃除も洗濯も面倒だった。おなかがすいてたまらないのに、料理をする気になれず、スナック菓子やパン、ハムやチーズ、生野菜をそのまま食べて過ごした。やがてそれらのものだけでは飽き足らず、おなかの子供のためにもしっかりたんぱく質を摂らなければと思いたった。
肉、だ。
今さら焼くのも面倒だ。いっそこのまま食べてしまいたい。ライオンはしまうまを食べる。ホッキョクグマはアザラシを食べる。同じことを人間がしたって何の問題があるというのか。
はじめに牛のステーキ肉を
続いて豚のロースとこまを
そして鶏のむね肉を
むさぼるようにかぶりつくと、ひんやりとやわらかい肉の感触が口の中に広がった。何度も噛んで、ゴクリと飲み込んだ。なんてことなかった。
あたしはひたすら食べ続けた。
あたしのおなかの中で
噛み砕かれた
牛と豚と鶏がごちゃ混ぜになって
グルグルまわっている
まるでパーティーだ
それを見て、おなかの子が「もっと、もっと」と歌うようにはやしたてる
ガチャリと鍵穴が回る音がした。うまそうなやつが帰ってきた。あいつをひと飲みにしたらどうだろう。あたしはおなかに手を触れ、確かめる。
「もっと、もっと」と笑っている。
「パパ、パパ」と手をたたいている。
そりゃそうだ。君たちは親子で似た者同士だ。二人とも、あたしの腹の中でせいぜい仲良くやりたまえ。
あたしはタカオに飛びかかった。
タカオが何か叫んだけれど、あたしには聞こえなかった。
事が終わると、あたしは急に甘いものがほしくなって、床下の保存庫に板チョコを買って入れていたのを思い出した。尖った爪で銀紙をはがし、チョコをむさぼりながら、あたしは今日がバレンタインだったことを思い出していた。
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二月十四日。〇×市の安田孝雄さん宅で孝雄さんのものと思われる男性の遺体とともに一匹の狼が見つかりました。孝雄さんは狼に噛まれ、死亡したものと推定されます。狼が安田さん宅にどのように侵入したかは不明で、狼は発見後、まもなく射殺されました。狼は妊娠中で、胎児は市内の動物園に保護されました。警察は、安田さんと同棲していた二十代の女性を捜索中です。