12~14
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私は多分、人生の幸運のほとんどを、ここで使い切ったに違いなかった。
なぜならば、結構な高さの崖の上から落ちたはずなのに、こうして骨を折る事もなく、生きているからである。
しかしここはどこだろう。
崖から落ちた時に意識を失ったらしい私が、目を覚ますとそこは、どこかの洞窟だったのだ。そして、私は洞窟の中で柔らかいものの上で寝ていた。
ついでに少し獣の匂いがする。
野生動物とか魔物とかが、私を食べるつもりで運んできたというのは、ちょっと考えにくかった。食べるつもりなら、とっくに私の息の根は止まっているはずだからだ。
だったらなんなんだろう。
そんな事を考えつつ、起き上がったその時である。
「ああ、あんた目が覚めたんだね。あいつはあんたの目が覚める時間も、考えてあたしを呼んだらしい」
洞窟の入り口の明るい方から、しわがれた老婆の声が聞こえてきて、そちらを向くと、そこには使い古された布のローブをかぶった人が、杖をついて立っていたのだ。
彼女は一体誰だろう。ここの住人かなにかの知り合いなのだろうか。
あいつ、という呼び方から推測するに、それなりにここの洞窟の主と親しい間柄なのかもしれない。
「あの……」
「ああ、今はそんなにおしゃべりにならなくっていいよ。あんたが苦労したって事は、あんたを見ればよくわかる」
「……」
人里離れた場所に暮らす、何でも見通す占い師とか、そういった人なのだろうか。私は占いとかにも詳しくはないけれども、人相を見て人を当てる事を職業にするのが、占い師だと言うのは知っていた。
占い師のおばあさんと思われるその人は、こちらに近付いてきて、起き上がった状態でおばあさんを見ている私の顔を見て、それから首に手をあてがった。
「まったく。崖の上から女の子が落ちてきたとか、変な話を言う物だからとんできたんだけどね、事実で驚いたよ」
全く驚いていない声で、おばあさんがそう言った。私が崖から落ちてきた事を知っているならば、誰かの目の前で落ちてきたのだろう。
そしてその相手は、言語を操る事のできる生き物で、多分それなら人間に違いない。
「ちょっとあんたの事を見させてもらうよ」
おばあさんはそう言って、結構遠慮なしに私の体を触って、私がうめいたり引きつった声を出したりするのを観察して、こういった。
「たいした幸運だ。あの高さから落ちてきただろうに、行動に支障が出る問題が起きていない。……おやおや」
おばあさんはそう言った後に私の顔をのぞき込んで、驚いたという調子でこういった。
「あんた、妖精の名付け子だね」
「いいえ違います。私の名付け親の人は、魔法使いでした」
「全く、妖精ときたら何でもかんでも魔法使いでごまかすんじゃないよ」
「ええっと……?」
おばあさんの口が少し悪くなったから、一体どういう関係なのか尋ねようとして、でも言いたい事が出てこなかった私に、おばあさんは続けた。
「妖精はね、大体が魔法使いって名前を使って、名付けた子供の手助けをするんだよ。妖精と関わりがあるという話になると、狙ってくる私欲にまみれた連中は多いからね」
「おばあさんはどうして、そういう事がわかるんですか」
「そりゃあ、あたしが本物の魔女だからだよ」
ひっひっひ、とおばあさんはいかにも魔女、と言う風な笑い声を立てたのだけれども、全然怖くなかった。
「ま、大体の人間は魔女も魔法使いも妖精も、魔法を使うって事でひとくくりにするから、違いなんてわからないのだけどね。本人達からすれば全然違うのさ」
「今後のために教えてもらってもいいですか」
「もちろん。まず魔女は、火を噴いたり氷を操ったりはしない。一般的に魔法と呼ばれる物を使うのが魔法使い。でも魔法使いも、無から有は生み出せない。自分の想像した物を実体化できるのが妖精。っていう違いだね」
「あっ……」
おばあさんの言っている事が事実なら、確かに私の名付け親のあの人は、妖精だったのだろう。
だって何もないところから、ガラスの靴を取り出してくれて、それがほかの魔法が解けてもなくならないって言ったんだから。
「心当たりがある様子だね」
「あります……」
「あと、人間の名付け親に立候補する魔法を使う存在ってのは、大体が妖精」
「どうしてですか」
「魔女も魔法使いも、言霊に縛られているから、誰かに名前を与えると、その名前の力で子供に影響が出るからさ。氷にちなんだ名前だったら、その子は氷と何かの運命でつながってしまうって感じで、例えば吹雪の中で凍えて死ぬとかね」
「……」
魔女も魔法使いも、名付け親にならないのが納得できる説明だ。
でもこのおばあさんが、冗談とか嘘を言っている可能性はどれくらいだろう。
見ず知らずの人間を、頭から信じていいとは、もう思えない私がいた。
「まあ、あんた、あたしを疑っているね。結構なことだ。人生にはそれくらいの用心深さが大事だよ。でも一つだけ良いことを教えてやろう。魔女は基本的に、制約がかかっているから嘘は言わないのさ」
「……」
「そして魔女であることに誇りを持っている。これくらいは信じても良いんじゃないかい」
このおばあさんは自分を魔女だと言っている。魔女は制約で嘘をつかないと主張している。
そして魔女である事を魔女は誇りに思っている……
つまりおばあさんが嘘をついていたら、おばあさんにとっての誇りを汚す事になる。
そこまで考えた私は、信じてみても良いかもしれないと思い直した。
「さて、あんたの話を聞かせてもらおうじゃないか。崖から転げ落ちるなんてなかなかないよ。事情持ちだね」
「話したらどうなるの」
「どうにもならないけれどね、あんたがどこかから逃げ出しているのなら、しばらくここでかくまってやるために必要なのさ」
「……じゃあ」
おばあさんはかくまってくれると言っている。なら、崖の下の……森とかに近い村や町の事も知っているかもしれない。
ならば、少しだけ、心の整理をする時間が必要な間だけ、おばあさんにかくまってもらうのも良いかもしれない。
私は、まずどこから話したら良いんだろうと思いながらも、一つずつ、父さんが死んだ後から、今までの事をおばあさんに話す事にしたのだった。
13
あらかたの事情を説明すると、おばあさんは見るからに同情した声で言った。
「あんたかなり運が悪いんだね」
「おっしゃるとおりで」
「妖精の手助けがあるのに、幸運な運命の道を歩けないで、舞踏会にも行けないだ、旅行先に着いていったら大火傷を負うわ、治療が終わって自宅に帰ったら義母にだまされて売り飛ばされるわ……あんた妖精でも補助できない位の不運な体質だね」
「自分でも人生を見回してそう思います」
「そんな事情の子なら、安心しな。しばらくは面倒を見てあげるから」
「ありがとうございます」
「さて、じゃあはじめに、ここがどこかのかをあんたに教えなくちゃいけないね」
話が一区切りしたところで、おばあさんが意外な事を言いだし始めた。
「王国のどこかじゃないんですか」
「あんたが落ちた崖の街道は、王国と帝国の境界にある道でね。崖の下は帝国に属するのさ。だからここは、帝国の森の中なんだよ」
「そんな道があるんですね」
頭に地図は描けなかったものの、そういう街道がある事はおかしくもないだろう。国境線の道と言うやつだ。
「道にも色々あるわけさ。で、この森は今、魔女の森って呼ばれている場所になっている。百年前にあたしがここを根城にしたからさ」
「百年!?」
と言うことは、目の前のおばあさんは百歳を超える長寿で……魔女だから長生きなのだろうか。
結構なお年だとは思ったが、予想以上の年齢にめまいがしそうになった物の、おばあさんは続ける。
「魔女の森には、時々街の薬ではどうにもならない人間が、薬を求めてやってくる。あたしは薬を作る代わりに、欲しいものを持ってくるように言って、物々交換をする」
それが今のところ生業だね、とおばあさんは言う。
「魔法使いは魔法の薬を作れない。妖精は自分の術で治してしまうから薬の知識を持たない。魔法の薬を作れるのは魔女だけってのも、魔女と魔法使いと妖精の大きな違いだね」
「おばあさん、実はすごくすごい?」
「長生きしていると、薬の知識が増えていくからね」
たいした話じゃないという調子で続けたおばあさんが、さらに言う。
「あんたをかくまってあげるって言ったけれども、何にも仕事をさせないわけじゃない。家の事を手伝ってもらうよ」
「それはかまわないです! 家の事だったら、大体どんな事も経験済みです!」
ただより高い物はない。これは父さんの言っていた事で、ただという文字の中には、いろいろな恐ろしい物が隠されている可能性があるからだと、昔に教わった。
だから勢いよく言うと、おばあさんはまた、魔女らしい笑い声を立てた。
「そうかいそうかい、じゃあここの住人にお礼の挨拶をしてから、今すぐにうちに行くよ。ここは人間の暮らす場所じゃないからね」
「えっ……?」
おばあさんがそう言ったその時、ばさりと羽音がして、洞窟の中に、燃え上がるような明るさをまとった大きな鳥が現れた。
「火の鳥……?」
「あんた、初めて見るのかい? そうさ、これが本来の火の鳥だよ」
その、人と同じくらいの大きさの、輝いて燃え上がっている鳥は、美しい声で鳴いて、おばあさんに何か話しかけた。鳥の言葉だから、私は全然わからなかったけれども、おばあさんはうんうんと頷いた。
「安心しな、この子だってあんたがいる事を、街に戻ったって吹聴しないさ。ね、あんたも言わないだろう?」
「……だって、誰が信じるんですか。火の鳥が暮らしているのは、帝国の向こうの銀の山だって、誰もが思っているのに」
「そういうところは賢くて結構。この火の鳥は、数ヶ月前に王国から逃げてきた訳ありでね。今は静かに暮らしていたいのさ。でもあんたが崖から落ちてきたから、とっさに助けたんだとよ」
「ありがとうございます、火の鳥さん」
色々驚きしかなかったのだけれども、私は命の恩人にお礼を言う事は、忘れないで、火の鳥に頭を下げた。火の鳥が何か言って、おばあさんが通訳する。
「君の大火傷の原因は自分だから、これで帳消しにしてくれよ、だってさ」
「……あ!」
じゃあ、この火の鳥が、皇子様が逃がしてしまった、王国の神殿でご飯をもらえなかった火の鳥なのか。
でも火の鳥って、神殿とかの金の籠の中にいるくらいだし、噂だと孔雀くらいだって聞いていたのに。
一体何が違うんだろうと思いつつも、命の恩人に対しての詮索は失礼だから、それ以上の事を聞かないと決めたのだった。
「さて、降りるよ」
おばあさんはそう言って、すると火の鳥がまるで背中に乗れと言うように動いた。
「えっと」
「崖の下に降りるには、こいつの背中に乗らなきゃならないよ。安心おし、落ちたりしないから」
……多分大丈夫なんだろうと、私はおばあさんを信じて、おばあさんとともに火の鳥の背中に乗って、崖の下に降りたのだった。
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おばあさんの家は、薬の匂いがしみこんだ、木造の平凡な家で、家の中に大鍋が置かれているのが、普通ではないものだった。
いくつもの薬の材料が引き出しの中に入っているらしい。
この森の中以外でとれる材料はどうしているんだろう。
引き出しの多さからそんな事を考えたのは初日だけで、あとは毎日、おばあさんとの共同生活になっていた。
時期的に魔女の薬が多く必要になる時のために、集めている薬草があったり、おばあさんの家まで物々交換で薬草の干した物を持ってくる行商人がいたり、私はいろんな事を知ったけれども、おばあさんは私に薬の作り方は教えない。
「魔女の薬は、魔女以外が作っても効果がないと決まっているんだよ」
というのがおばあさんの教えてくれた事で、魔女の特別な力を意味しているらしかった。
おばあさんは凄腕なのかもしれなくて、いかにも医者である人が、薬をもらいに来る事もあった。
だから、どうしてここに隠れ住んでいるのかと聞いてみた。
「おばあさんは、どうしてここでひっそり暮らしているの? もっと快適な場所で暮らせたんじゃないの?」
「あんたがその問いかけをするのに、二週間もかかるとは思わなかったよ。気にならなかったのかい」
「聞いてはいけないかと思ったんだけど、どうしても気になってしまって」
「そうかい。まあ、あたしは帝国の宮廷魔女だったんだ。大昔はね。でも帝国の秘宝を盗み出したって言う汚名を着せられてね。宮廷を追い出されて、あちこち転々として、ここに落ち着いたのさ」
「汚名って事は、おばあさんが盗んだんじゃないんだよね」
「そうさ。あれは欲の皮の突っ張った貴族の暴走だったことが、五十年前に明らかになってね。私の汚名は晴れたけれど、もう宮廷に戻りたくなくなったから、ここに暮らしているのさ」
「秘宝って何だったの?」
「おや、宝物の興味はあるのかい」
「秘宝って言うくらいだから」
「まあ誰でも気になるかもね。帝国の秘宝、それは……」
おばあさんは一呼吸置いて、重々しくこう告げた。
「大昔に、帝国の皇帝が見初めた乙女がはいていた、ガラスの靴さ」
「……えっ」
「その乙女は皇后になって、皇帝を支えた賢女と褒められている。これもガラスの靴のおかげなのさ。秘宝のガラスの靴は、持ち主に対して知恵と勇気と幸運を授ける祝福の贈り物だからね」
「……」
帝国の秘宝が、私が名付け親の妖精さんにもらった物と同じ物っていうのが気になったけれども、きっと帝国の秘宝の方が特別なのだろう。
私は幸運も知恵も勇気も、もらわなかったのだから。
「ガラスの靴の力の噂だけが一人歩きしてね。当時娘を妃にしたかった貴族が、秘宝を部下に言わせて盗み出した。ところが部下はちゃんと盗んだのに、ガラスの靴を持ち去れず、秘宝は忽然と姿をくらました。そこで魔法の力が働いたのだと言う事で、当時宮廷魔女だったあたしに疑いがかけられて、命は許すかわりに、宮廷を追い出されたのさ」
「……」
おばあさんも運が悪いとしか言いようのない事のような気がした。
黙る私に、おばあさんが言う。
「でも、あたしは知っている。ガラスの靴は意思があるってね。帝国の宝物倉にいるのが飽きて、わざと盗み出されたって事も。そして妖精の手を借りて、新しく幸運な乙女の人生の手助けをしようと考えただろう事も」
「ガラスの靴に、意思があるって……」
生き物か何かなんだろうか。ちょっと怖くなったのだけど、おばあさんはさらっと続けた。
「魔法の道具には、人間の考える意思とは少し違う物が宿りがちなのさ」
そしてあんたのところにたどり着いたのに、あんたときたらその価値もわからないで、あっさり治療の代金にしちゃうんだもの、ガラスの靴も驚いただろうよ。
とおばあさんは大笑いしてからこういった。
「さて。知り合いの貴族から、手紙が送られてきていてね。帝国の第二皇子が、ガラスの靴の持ち主の王国のお嬢様を、命の恩人だって事で求婚したらしい」
「……え?」
「持ち主はあんただろう。でもここまで第二皇子は求婚をしに来ていない。……そして帝国にガラスの靴が戻ったことで、あたしに正式な謝罪を今度こそしたいと呼んでいる。だからあんたも一緒においで。あんたになりすますお嬢様の顔を、見てみようじゃないか」
おばあさんはそう言って不敵な顔で笑ったのだった。