9.フェアリー・テニス……⑨
観客席の一角で異変が起きたのは、シェリルとステファニーが、互いに反目し、鼻を鳴らした直後だった。
「失礼いたします。わたくし、少々……」
端の席に腰掛けていた、一人の女子生徒が顔を青ざめさせて立ち上がった。
Sクラスの同級生セラフィーナが、ふらつく足取りで、侍女に支えられながら出口へと向かう。
「セラフィーナ様……?」
シェリルは思わず立ち上がった。
「シェリル様!」
ラルフェリアもすぐに後を追った。
観客席を出て、廊下を急ぐ二人。ラルフェリアは、シェリルの後ろ姿を見つめながら思った。
――シェリル様は、セラフィーナ様をとても気にかけていらっしゃる……
それは単なる同級生への気遣いではない。もっと深い、何か共感するものがあるのだろう。
思えば、ウーラニアー村にいた時からそうだった。シェリルは常に周囲の人々の心を感じ取ってしまう子だった。だからこそ、村人達の恐怖や悪意を感じ取り、刺激しないように自らの存在を静かなものへと変えていった。
――今のシェリル様は……その時の比ではない……
アルフォード大聖堂から、事実上の『聖女』として認められた影響もあるのだろう。『人の心の奥底を読み取る力』は時に重荷となる。知りたくないことまで知ってしまうからだ。
――ひょっとしてセラフィーナ様もまた
この場の不穏な気配を誰よりも強く感じ取っている?
もしかして……
シェリル様は、セラフィーナ様の中に、
ご自身と同じものを見ているのかもしれない
他人の感情や気配を敏感に察知してしまう苦しさ。それを知らずに済む者にとっては理解できない孤独。
だからこそ、シェリルはセラフィーナを放っておけないのだろう。
廊下の突き当たりに、青白い顔で壁に寄りかかるセラフィーナの姿があった。侍女が心配そうに彼女を支えている。
「セラフィーナ様、大丈夫?」
シェリルが駆け寄ると、セラフィーナは力なく頷いた。
「申し訳ありません……シェリル様……急に息苦しくなって……気分が……」
「お水を汲んで参ります。少々お待ちください」
セラフィーナの侍女が一礼して、その場を離れる。それを見送るセラフィーナの翠の瞳には、まだ恐れの色が残っていた。額には汗が浮かび、呼吸も浅く速い。まるで何か巨大な存在の気配を感じ取っているかのように、その身体は小刻みに震えていた。
「セラフィーナ様……」
ラルフェリアがそっと近づき、その様子を観察する。そして、はっとしたように目を見開いた。
風精族である彼女には見える。高位の存在は、たとえ身を変えても本質を見抜く能力が備わっているからだ。始祖たる風精神族のアイリスが人間族の冒険者アイリーンとして活動していても、その本質は決して見誤らない。
そして今、セラフィーナの精神体を見た時、ラルフェリアは確信した。
「シェリル様……セラフィーナ様の精神体ですが……風精族に近い……」
「え?」
シェリルは驚いてセラフィーナを見つめた。
精神体とは、肉体とは別に存在する、魂の器。通常の人間には見えないが、聖女や一部の魔術師には感じ取ることができる。そして風精族の精神体は、自然の魔力に敏感で、環境の変化を鋭く察知する特性がある。
――でも……何か違うわ……アイリス様とも違う……
ラルフェリアは内心で首を傾げた。
確かに風精族の気配がする。しかし、どこか掴みきれない。
――もしかしたら、風精族の血が
混じっているだけなのかもしれない。
あるいは、何か別の理由が……?
まるで霧のように、その本質が曖昧で、輪郭が定まらない。
「だから……この場の不穏な気配を、誰よりも強く感じていらっしゃるのかもしれません……」
シェリルは胸の奥で納得した。セラフィーナが感じていた「風向きの変化」。それは比喩ではなく、実際に魔力の流れが変わり始めていることを、彼女の精神体が感知していたのだ。
その時だった。
「まったく……呆れたものですわね」
背後から、聞き慣れた声が響いた。
振り返ると、そこにはステファニーが立っていた。鹿毛色の髪を揺らし、呆れたように首を振っている。テニスウェア姿の彼女は、ラケットを手にしていて、いつもの扇を持っていない。
「こんな所で倒れるなんて……Sクラスの生徒なら、もう少ししっかりなさいな」
その言葉は辛辣だったが、その瞳には心配の色が宿っていた。
「ステファニー様……?」
シェリルが驚いて声を上げると、ステファニーは「ふんっ」と鼻を鳴らした。
「別に心配なんてしていませんわよ。ただ、同じクラスの者が具合を……」
言い掛けて、癖となっている扇で口元を隠そうとするが、それがテニスラケットであることに気が付いて、慌てて背を向けた。
「まあ、一応、様子を見に来ただけですわ! 一応!」
「ステファニー様」
後ろから、侍女のフロラが呆れたような表情で声を掛け、小さく溜息を吐いて言った。
「お嬢様、正直に仰ってください。『セラフィーナ様が心配だ』と仰って、私を置いて走って来られたではありませんか」
「フ、フロラ! 余計なことを……!」
ステファニーの顔が一気に赤くなる。
「わ、私はただ……その……クラスメイトとして当然の行為を……!」
「ステファニー様……」
シェリルが微笑むと、ステファニーはますます顔を赤くした。
「勘違いしないでくださいまし! 貴女方と慣れ合うつもりはありませんわ!」
そう言いながらも、その声は震えている。セラフィーナが、薄く微笑んだ。
「ありがとうございます……ステファニー様」
「う……うるさいですわね!」
ステファニーはくるりと踵を返した。
「さあ、私達の試合の番ですわよっ! シェリル、覚悟なさい。今日こそ、貴女に私の実力を見せつけて差しあげますわ!」
捨て台詞を残して、ステファニーは颯爽と観客席へと戻っていく。フロラが「お嬢様、お待ちください」と慌てて後を追った。
シェリルは、その背中を見送りながら、小さく笑った。
「本当は、優しい人なのかも……口は悪いけど……」
「ええ……ステファニー様は、器用なのに不器用なだけですね……誰かさんみたいで……」
「……ん?」
シェリルが珍しく目を剥くが、ラルフェリアは微笑みで、幼馴染の抗議を受け流した。
セラフィーナは侍女が持って来た水を口にして、少し血色が戻ってきた。侍女は優しく彼女を支えている。
「シェリル様……ありがとうございます」
「無理は……しないで……」
「はい……もう少し休めば、大丈夫です」
シェリルは頷いて、ラルフェリアと共に観客席へと戻ろうとした。
その時、ふと視線を感じて振り返る。
遠くの廊下の影に、一瞬だけ、菫色の髪が揺れたような気がした。
――アリシア様……?
しかし、次の瞬間には、そこには誰もいなかった。
シェリルは首を傾げながらも、切り替えるように両手で自分の頬を何回か叩くと、再び観客席へと足を向けた。
――そろそろ、わたし達の出番……
覚悟して……ステファニー・ハンコック
シェリルの耳に、フェアリー・テニス会場の歓声が、再び響き始めた。




