8.フェアリー・テニス……⑧
ラファエルが浮かべる笑みは完璧だった。けれど、シェリルは感じた。
優雅に微笑むその影で、纏う魔霊気は黒く立ち込め、空に広がる黒雲のように蠢いている。
コート上の光と氷が織りなす清廉な輝きとは対照的に、この青年から感じるのは、何か重く、暗いもの。
――何、この感じ……悪意? それとも……
シェリルの背後で、ラルフェリアが一歩前に出る。
「シェリル様、あの者……」
「ララ」
シェリルは小さく首を振り、ラルフェリアを制する。彼女はこくりと頷いて、シェリルの背後に控えた。
「クラリス嬢。後ほど学院の庭園で小さなお茶会を催したいと思いまして。直々にお誘いに参じました。よろしければ……ご一緒にいかがかな」
その場が凍りついた。
コート上では、リネアの放った光球が氷の壁に激突し、眩い光を撒き散らしている。正統な競技。正統な美しさ。正統な貴族の戦い。
それに対して、今ラファエルが口にしたのは!
この世界で、男子が婦女子の嗜みである「お茶会」を開く……それは社交の礼儀を弁えた者なら決して行わぬこと。ラファエルの口にした言葉は、貴族社会の常識を踏みにじる禁忌だった。
「な……っ!?」
ステファニーが思わず立ち上がる。握り締めた手が震え、唇が引き攣る。
「マックスウェル卿、お戯れが過ぎるというものではなくて?」
「そうだね。些か性急とは思うが、少しでも我が婚約者となる御方の為人を知りたいと思ってね……」
ほんの僅か、白磁のような頬を上気させラファエルは笑う。しかし発せられた言葉は、周囲の令嬢達をざわつかせるには十分すぎるほど破壊力があった。
「婚約……ですって?」
ステファニーも目を見張った。
確かに貴族の結婚に本人の意思はあまり関係ない。それは家と家との繋がりが全てを決するからだ。血縁関係であること……その事実が大切だった。それはステファニーも十分理解している。
――それでも、幾ら何でも、これは強引だわ
まして、王国でも双璧を成す二大公爵家の嫡男と息女の婚姻ともなれば、何より手順が大切だ。ステファニーの胸の中を、理解を超えた動揺が駆け抜けた。
そもそも高位貴族の婚姻とは、恋愛や感情で決まるものではない。
まず両家の当主同士による会談があり、血統・資産・政治的立場など、あらゆる条件が検討される。その後に正式な縁談として王宮へ届け出がなされ、国王または王家の監査役が承認することでようやく婚約となる。
当人同士が顔を合わせるのはその後だ。互いに相手の素性を探り合い、謁見や舞踏会などの公的な場で礼を尽くして交わす。それがこのマーキュリー王国における『正しい婚約』の流儀である。
だがラファエルは、今この場でそのすべてを飛び越えた。
まるで庶民が軽々しく恋人を名乗るように。
その宣言は、形式を何より重んじる王国貴族社会において、あまりに非常識であった。コート上で繰り広げられる、ルールと礼儀に則った美しい競技とは真逆の、傲慢で無作法な振る舞いに他ならない。
だが当のクラリスは、微動だにしなかった。
淡い紅色の唇がわずかに弧を描く。
「そうなのですね……婚約については、まだ家からは何も窺っておりません故、即答は致しかねますが……お茶会でしたら喜んで」
まるで、氷を陽に晒して溶かすような柔らかな微笑。
だがその瞳の底に、何を思っているのか、誰にも読めない深い色が宿っていた。
「クラリス様!?」
ステファニーの声がわずかに裏返る。
女子生徒達の声があちらこちらで飛び交い、ざわめきが観客席を包む。コート上の試合は続いているが、もう誰もそちらを見ていない。完璧なルールと礼儀の世界が、たった一人の青年の登場によって引き裂かれた。
その瞬間、シェリルは、クラリスの瞳の奥に一瞬だけ灯った不思議な光を見逃さなかった。
虹の欠片のようでありながら、どこか現実離れした輝きは、妖精の吐息のように儚く、次の瞬間には霧のように掻き消えた。
「シェリル様……」
「ララにも見えたの?」
「貴人に無礼だとは思いましたが……」
隣に控えていたラルフェリアも、わずかに息を呑む。 ところがクラリスは、何事もなかったかのように再び穏やかな笑みを浮かべている。
「おや、こちらは……」
ラファエルがシェリルの方へ向き直った。
白磁の仮面を被ったような礼儀正しさで歩み寄る。だが、その笑みには温度がない。
「大聖堂の誇る聖女様にもご挨拶を。お初にお目にかかる、ラファエル・ブルックヤード……なに、取るに足らぬ貴族の子倅です」
その声が響いた刹那、場の空気が歪んだ。
黒い霧のような魔霊気が、彼の周囲から滲み出し、ゆるやかに広がる。冷たい夜風のような圧力が、シェリルとラルフェリアを包み込もうと迫る。
直後、瞬く間に弾かれた。見えない光の幕がふっと揺れ、黒い霧は一瞬にして消え失せる。
「流石はシェリル嬢……『聖女』の名は、伊達ではないと言う所だね」
ラファエルは飄々と笑い、何事もなかったかのようにクラリスへと歩み寄る。そして傅き、恭しく彼女の手の甲に唇を寄せた。その瞬間、ステファニーの眉が険しく吊り上がった。
――なんて無礼な……!
高位貴族の婚姻において、手の甲への接吻は礼儀と格式が全てを決する儀礼である。承認もないまま、勝手に手を取って口付けをするなど、以ての外だ。しかも、この場は観客席。周囲の女子達の目もある。それも全員が貴族令嬢であり、公爵家の御曹司の行動は瞬く間に実家へと伝わるだろう。
それは、単なる好意の表現などではなく、権力を誇示し、相手の尊厳を踏みにじる行為に他ならなかった。
「ふ……不埒ですわ!」
ステファニーの声には怒りが滲む。口元は硬く結ばれ、頬はわずかに紅を帯び、シェリルもまた、心の奥で違和感を覚えた。
――なんて不躾な真似を……
ステファニーの長い鹿毛色の髪が逆立ち、拳を握りしめながら吐き捨てるように言った。
「まったく、あの方ったら……顔と家柄で他人を動かせると思っているのね」
「確かに……あの者からは悪意しか感じない……」
直後、二人の視線がぶつかる。翠蒼と朱赤……瞬時に空気が軋む。
ステファニーは紅潮した頬を扇で隠し「ふんっ!」と小さく鼻を鳴らして顔を背け、シェリルもまた、つられて視線を逸らす。
「……ふん!」
ラルフェリアとフロラが、互いに困ったように目を見合わせた。




