9.聖なる都……④
白亜の壁に囲まれた応接の間で、マックスは教皇アレクサンドル13世の前に腰掛けていた。重厚な木製の扉を開けて入室した時から、部屋に漂う微かな香木の香りが、彼の神経を否応なく研ぎ澄ませていた。
それでも座面から伝わる上質で柔らかいソファーの感触が、今は居心地の悪さすら感じさせてしまう。
対する教皇の表情は穏やかそのものだ。ステンドグラスを通して差し込む光が、教皇の純白の法衣を虹色に染めている。
先程迄、聖勇者の称号を授かっていた謁見の間とは異なり、この部屋は幾分質素に作られており、勇者とはいえ、一介の平民に過ぎないマックスは、緊張の度合いを一段緩めていた。
それでも、この空間の持つ厳かな雰囲気は、彼の背筋を自然と伸ばしていた。
「聖なる勇者マックスよ、其方に神聖なる使命を授けたい」
教皇の声は柔らかく、しかし威厳に満ちていた。マックスは黙って頷く。
その瞬間、教皇の瞳に、何か別の色が宿ったように感じた。
「マーキュリー王国の辺境、ウーラニアー村に特異点が出現したとの情報がある」
「……特異点? 何ですか? それは」
思わず口にした素朴な疑問に、背後に控えていた司教達の間で、微かな動揺が走る。
「魔に魅せられし邪悪なる存在。我が大神アニマに仇為す者を生み出す場所だ」
教皇の言葉に、マックスは思わず顔を上げる。その瞳には困惑の色が宿っていた。
ウーラニアー村……それは明らかに異国であるマーキュリー王国領内だった。
ましてマーキュリー王国はアニマ教を信奉していない。国教は別の神を崇めている。
つまりは異教を信奉する敵国に踏み込むことを意味する。そこに潜む危険は計り知れない。
「しかし、猊下。それは……」
「承知している。だが、これは極めて重要な問題なのだ」
教皇は立ち上がり、ゆっくりとマックスに近づいた。
「特異点は、時として世界の秩序そのものを揺るがす。我々はそれを調査し、必要であれば封印しなければならない」
マックスの傍らで、ナディアが小さく息を呑み、マックスの腕を掴む。その細い指が震えているのが伝わってきた。
「何故、敵国の地に……?」
「『邪神』は、いかなる国境も超越し、我がアニマの民を浸食する。そして其方は聖なる勇者なのだ。『ノイルフェール』から無辜の民を守る使命がある」
――そういうことか……
教皇の言葉にマックスは腑に落ちた思いがした。宰相ラウレンツが、この国に自分を差し向けた理由も。
“マックスよ、教皇の意向には従うのだ。これは単なる二国間の関係以上の意味を持つ”
ジール王国を出発する前、ラウレンツ侯爵に投げ掛けられた言葉を思い出した。
広大な執務室で交わされた、あの静かな会話が蘇る。
あの時、マックスは意味を理解できていなかったが、彼を見つめる宰相の顔には、言い知れぬ曖昧さを含んでいた。
その瞳の奥に、何か別の思惑が潜んでいることは明らかだったが、今になって、その言葉の重みを実感している。
「しかし、彼の地に踏み込むことは……?」
「それこそが重要なのだ。マックスよ、時には、剣を振るわぬことが最大の戦いとなるとなる事を覚えておくのだ」
教皇の言葉の真意を測りながら、マックスは苦渋の決断を迫られていた。その言葉の裏には、まだ語られていない何かがある。それは確かだった。
眼前には謎めいた任務が、そして背後には見えない政治的な思惑が広がっている。
『聖勇者』という称号を得たことで、彼は否応なく、この巨大な歯車の一部となってしまっていることを実感した。
マックスはわずかに視線を落とし、教皇の言葉を反芻していた。
剣を振るう事で自らの道を切り拓いてきたマックスにとって『剣を振るわぬ戦い』とは一体どのような戦いにすればいいのか?
その問いに答えうる事は今の彼にはできそうもない。
「彼の地は、我々の教えの届かぬ『魔の森』の中だ。それ故に、邪なる信仰が根付いてしまったが、我等神の使徒により、いずれは浄化せねばならない。森を焼き、邪を払わなければならぬ」
教皇の言葉は続く。
「その根源たる地が特異点。彼の地がそれである可能性が高い。なればこそ、其方の手により、真実を解き明かすのだ」
マックスの胸中で、迷いが渦巻く。
特異点……それが本当に教皇の言う通り邪悪なものであるならば、放置することはできない。しかし、それがただの誤解や政治的な意図に基づいた偽りである可能性も否定できない。
教皇の目は静かにマックスを見つめ続けている。
その表情に嘘や欺瞞を見出すことはできなかったが、それでも何かを完全には明かしていない……そんな気配が漂っている。
ナディアの声が、沈黙を破った。彼の手に自らの手を添えながら。
「マックス、私は……貴方の傍にいるわ。どこへ行くことになっても、一緒に……」
マックスは彼女の手を握り返す。その温もりが、彼に少しだけ勇気を与えてくれた。
「猊下。使命を全うするため、全力を尽くします」
「良い返答だ」
教皇は満足そうに微笑み、手を一振りすると、側近の一人が進み出て巻物を手渡した。それは一枚の古い地図だった。
マックスはそれを受け取り、静かに目を通す。
「これは……?」
マックスが疑問を口にすると、教皇は微かに笑みを浮かべたまま答える。
「さよう。彼の地に関する絵図面だ。異郷の地である故、役に立つこともあろう」
マックスは深く頷くしかなかった。
全ては向かった先で、自ら解き明かせ……マックスはそう解釈した。
教皇の間を辞した後、マックス達は宿舎へと足を向けた。
石造りの廊下に響く足音が、不規則なリズムを刻んでいく。荘厳な聖堂に敷かれた大理石の床板は夕陽を浴びて煌めきを見せる。
その回廊を進みながら、彼は、ふと足を止め、外から聞こえる喧噪に耳を傾けた。
商人達の威勢の良い掛け声、市場での値切り合いの声、そして絶え間なく鳴り響く祈りの鐘。それらが混ざり合って、クロームという都市の独特の音景色を作り出している。その喧噪の向こうに、彼は何か運命めいたものを感じていた。
「マックス……」
「何でもない。部屋に戻ろう」
ナディアの背中に手を添えて彼は再び歩き出す。
差し込む夕暮れの光が、その表情に深い影を落としていた。




