プロローグ 旅立ちの前夜
古ぼけた村の門の前で、シェリル・ユーリアラスは一人佇んでいた。
この門を潜ってしまえば、もう二度とこの村に戻ることはないだろう。
何の変哲もない村だし、必ずしも楽しい思い出ばかりがあった訳ではない。それでもこの地を離れざるを得ないことに寂しさを覚えるのは、嘘ではなかった。
照りつける夏の陽射しが、シェリルの桜色の髪を鮮やかに照らしている。
風が木々の葉を揺らし、遠くから子供達の笑い声が聞こえてくる。いつもと変わらない、ウーラニアー村の日常の風景だ。
それを目にすると、胸の奥に重い石を抱えたような感覚が湧き立った。
この年12歳になるシェリルは、運命の分岐点を迎えていた。
つい先日起こしてしまった魔力暴走は、故意ではない。しかし、結果として周辺の野原を焦土にしてしまった。
幸い怪我人は出なかったものの、村人達の視線は明らかに変わった。畏怖と警戒が混じった眼差し。それが彼女の心を静かに締め付けていた。
「シェリルちゃん、明日には王都へ発つんだってね」
振り返ると、幼馴染みの少女ラルフェリアが立っていた。いつもの明るい笑顔ではなく、どこか寂しげな表情だった。
「うん……」
「『ホーリーウェル魔導学院』かぁ。お貴族様の通う学校でしょ? 凄いよね」
青白銀の髪から姿を見せる長く尖った細い耳、それは風精族の特徴だ。その独特な耳をピクリと動かして、ラルフェリアが目を輝かせる。
「全部ユーリアさんのお陰だよ……でも、こんな機会二度とないだろうから、頑張らないと……」
シェリルは努めて明るく答えたが、声は震えていた。
バーニシア……遥か彼方、シェリルの住まう『マーキュリー王国』の王都だ。
見たこともない場所へ、旅立つことへの不安が彼女の心を揺さぶっていた。
「寂しくなるね……でも、きっとシェリルちゃんなら、立派な魔術師になるよ」
「うん……そうできたらいいな」
「きっとなるよ! 私、応援してるね!」
ラルフェリアは、手を振って走り去っていった。
シェリルは彼女の後ろ姿を見送りながら、深く息を吐いた。
夕暮れが訪れ、村は黄金色に染まっていく。シェリルは教会へと足を向けた。養父であるジェームス司祭と修道女エミリーと過ごす最後の夜だ。
しかし教会の前まで来たとき、彼女の足が止まった。
「……また、聞こえる」
かすかな囁き。
昨日の夜から、夢の中で繰り返し耳元に響く声。それは人でも風でもない。
何か異質な存在が、彼女に話しかけているような感覚に導かれるまま、シェリルは村を出て『ユーミルの森』の縁へと足を踏み入れた。
そこは村人達が『魔の森』と呼んで恐れる深い森だ。
「少しだけなら……良いよね……」
木々の間を抜けると、そこには小さな光の粒が漂っていた。まるで星の欠片のように瞬く、青白い光の世界が広がっている。
「…………」
シェリルがそっと手を伸ばすと、光の粒が彼女の指先に触れ……脳裏に映像が流れ込んできた。
天空を覆う暗雲。激しく渦巻く風。そして、眩い光と闇が激突する光景。巨大な翼を持つ女性達が、何かと戦っている。光の巨人が咆哮を上げ、世界そのものが震えている。
「……これは……何……?」
シェリルは息を呑んだ。
見たことのない光景なのに、どこか懐かしいような、胸が締め付けられるような感覚があった。
「シナノ……」
声が、今度ははっきりと届いた。光の粒から溢れ出す、透明で優しい声。
「あなたには、まだ使命がある……」
「使命……?」
「この世界を……護るために……」
「いったい何を……?」
シェリルの足が竦んだ。心臓が激しく跳ねる。何を言われているのか、理解できない。
「怖がらないで……あなたは独りじゃない……いつも傍にいる……」
光の粒が、ふわりと彼女の周りを舞った。それは、まるで彼女を抱きしめるような、温かな感触だった。
しばらくして、光の粒は静かに消えていき、森は再び穏やかな風の音だけが残った。
シェリルは呆然と立ち尽くしていた。今のは幻だったのだろうか?
それとも……
「こんな所にいたの?」
透き通るような声が聞こえて、シェリルは我に返った。腰下まで伸びる長い銀髪と青銀の鎧を纏った聖騎士が、静かに彼女を眺めている。
「ここは危険な森よ。認められた者以外入ってはいけない……知ってるでしょ?」
「ごめんなさい、ユーリアさん。少し、考え事をしていて……」
頭を下げるシェリルを咎めるようなことはせず、むしろ穏やかな笑みを浮かべて聖騎士ユーリアは優しく彼女の頭を撫でた。
その温もりに、シェリルは目を閉じた。
「不安なのね?」
ユーリアの問いかけに、シェリルは小さく頷いた。
「王都なんて行ったこともないし……ホーリーウェル魔導学院って、貴族の子弟ばかりなんでしょう? わたしみたいな田舎の孤児が、やっていけるのか……」
言葉にしてしまうと、余計に不安が募ってくる。ユーリアはそんなシェリルの肩に手を置いた。
「シェリル、あなたは特別よ。その力は、きっとこの世界を護るために授けられたもの。だからこそ、正しく学ばなければならない」
「護る……ですか?」
「ええ。でも今はまだ、その意味が分からなくても良い。ただ、自分を信じて進みなさい」
ユーリアの翠石色の瞳が、真っ直ぐにシェリルを見つめる。その眼差しには、慈愛と同時に、何か深い決意のようなものが宿っていた。
「わたし……頑張ります」
シェリルの声は、まだ震えていたが、その中に小さな決意が芽生えていた。
「良い返事ね。さあ、ジェームス司祭が心配するわ……戻りましょう」
明日にはユーリアと共に、この地を離れる。聖騎士である彼女に導かれ、アルフォード大聖堂に向かうために。
◆◆◆◆
教会に戻ると、ジェームス司祭とエミリーが食堂で待っていた。テーブルには、シェリルの好物である野菜のシチューとパンが並んでいた。
「遅かったじゃないか。心配したぞ」
ジェームスの言葉に、シェリルは申し訳なさそうに頭を下げた。
「ごめんなさい、義父様……」
「まあまあ、今日くらいは良いでしょう。さあ、座って。シェリルの好きなシチュー、たくさん作ったのよ」
エミリーが優しく微笑む。彼女の作るシチューは、いつもシェリルの心を温めてくれた。
これが最後になるのだと思うと、シェリルの胸は締め付けられるようだった。
「シェリル、王都に着いたら、しばらくはアルフォード大聖堂で暮らしてもらうわ」
ユーリアが話し始めた。
「入学式が終わったら、寮に入って同じ年の子供達と共に生活することになるわ。魔法の基礎から、歴史、数学、戦闘技術まで、様々なことを学ぶことになる」
「戦闘技術……ですか?」
「ええ。魔術師は時に、この世界の脅威と戦わなければならないこともある。だから、自分の身を守る術も必要なの」
シェリルは黙って頷いた。魔力暴走事故のことが頭を過る。あの時の恐怖、周囲を焼き尽くした炎のことを!
「シェリル、恐れることはない」
ジェームスが穏やかに言った。
「お前の力は、確かに強大だ。しかし、それは呪いではなく祝福なのだ。『ノイルフェール神』は、お前に何か大切な役目をお与えになられたのだろう」
「義父様……」
「この村で、お前を育てられたことを、私は誇りに思っている。たとえ遠く離れても、お前はいつでも私達の娘だ」
ジェームスの言葉に、シェリルの目から涙が溢れた。
「ありがとうございます……」
エミリーが立ち上がり、シェリルを抱きしめた。
「泣かないで、シェリル。あなたは強い子よ。きっと立派な魔術師になって、また私達に会いに来てくれるわね?」
「うん……必ず……」
その夜、シェリルは自分の部屋で一人、窓の外を見つめていた。空には満天の星が瞬いている。
魔力暴走事故のこと。村を離れなければならないこと。そして、あの不思議な声と光の粒——胸の奥に、相反する思いが浮かんでは消える。
本当は怖い。そして不安だ。でも進まなければならない。あの声が本当に自分に何かを求めているのなら……
「……わたしは……いったい何者なの……?」
シェリルは小さく呟いた。王都バーニシアへ。ホーリーウェル魔導学院へ。そして、その先にある、まだ見ぬ世界へ。
その時、窓の外で一陣の風が吹いた。窓枠を揺らし過ぎ去る風に引き寄せられるように窓を開けると、風はまるで彼女の思いを受け止めるかのように、優しく髪を揺らしていった。
「我は風の大精霊のユーフェミア……我が友シナノ……『アニマ』より、この地を護る……それが我等の約束……あなたの願い……」
世界の気配が遠のく中で、風は静かに彼女の名を呼んだ。
けれど、その名を覚えている者はもういない。
風が大地を撫で、囁きが空を貫く。
「シナノ……あなたの願いは、いまも風に残っている……」
「待って! 『シナノ』って、誰のこと?」
そして……風が止んだ。
これまでの日常が、この瞬間から少しずつ変わり始める……そんな予感を胸に抱きながら、シェリルは瞳を閉じた。
ただ、遠い日の誓いだけが、風の音の奥で微かに鳴っていた。




