駄羅邪魔虫(ダラジャマムシ)の恐怖
私は虫が大嫌いだった。世の中に虫はたくさんいるけど、どれも好きになれた試しがない。嫌いな理由はたくさんある。まずフォルムがキモいし、どこにでも入って来そうな小ささが嫌だし、耳元に飛んで来られるとびっくりするし、毒を持ってる奴もいるし……。とにかく、私は虫が嫌いなのである。
今朝、私はトーストを食べていた。テレビから流れてくるニュースに耳を傾ける。
『――というわけで、ダラジャマムシには気を付けてください。本日、政府から有害虫に指定された、たいへん危険な生き物です』
「え?ムシ?」
パンを持つ手が止まった。虫嫌いの私にとっては最悪のニュースだった。
「あんた知らないの?ほら、隣の県で若い女性が刺されて緊急搬送されたって。凄い毒性があってね、花壇の中とかうようよ這い回ってるらしいのよ」
母からの補足説明に、私は思わず鳥肌が立った。私は口を拭って席を立つ。
「ごちそうさま」
「あら?残すの?体調悪い?」
私は母を無視して玄関に行った。そこで普段通り、虫よけスプレーを全身に吹き付けた。手足以外にも、服の中まで満遍なく、念入りにスプレーを行き渡らせる。ダラジャマムシだって?冗談じゃない!そんな危険な虫がこの東京に生息してるなんて……最悪だ!
教室に着いた。窓を開けて談笑しているクラスメイトの方を私は睨んだ。あの隙間から虫が入って来たらどうするつもりなんだろう?私はノートで顔を扇ぎつつ、虫の侵入を勝手に心配していた。
「玲奈。おっはよ」
「うん、おはよ。真希」
親友の真希が隣に座った。そして眼鏡をさっと拭く。彼女の癖だった。朝、自分の席に座るといつもこの動作をする。だが、今日の真希は眼鏡を机の上に置いたまま、俯いてしまった。その表情はどこか深刻そうで、自分の下唇を噛んでいた。
「どうしたの?真希?」
「実はね、親戚のおばあちゃんがやられちゃったの……ダラジャマムシに……」
「……!?」
「農作業中にね、背中を刺されたんだって。たぶん、袖とかそういう隙間から入ったんじゃないかなと思うんだけど……。あいつってアリみたいに小さいらしいのよ」
あいつはアリのように小さい――。私は茶色に日焼けした両腕を見た。アリサイズのダラジャマムシが皮膚の上を歩き回っている光景を想像して、気持ち悪くなった。
「おーい!朝のミーティングの時間だぞー!席につけー!」
担任の先生がやってきて、クラス全体が静かになった。先生は脇にプリントを挟んでいた。
「えーとだな。もうみんなも知っていることだと思うが、例のダラジャマムシについて連絡するぞ。街路樹とか、花壇とか、そういう虫が出そうな場所には近づかないようにしてくれ。万が一刺されたと思ったら、すぐに救急車を呼ぶんだ。いいな?」
クラス全員が先生の話に注目していた。だが、真希だけはどこか上の空で、眼鏡も相変わらず机上に置かれたままだった。
今は7月。重さすら感じるギラギラの太陽の光が圧し掛かっていた。私たちは校庭をひたすら走っていた。今日は長距離走のタイム測定日だった。
「はっ、はぁ、うぅ、はぁ……」
この灼熱の気温に長袖長ズボンは無理だ。だから、どうしても肌を晒すことになってしまう。スプレーが効いてくれることを祈るしかない。
「……ゴール!はぁ!はぁ!」
走り終えた私は待機組に合流する。タオルで汗を拭いながら、砂の上に座った。
「ねぇ、知ってる?」
私の背後にいる二人組の話し声が聞こえて来た。
「例の虫……ほら、ダラジャマなんとかってやつ。あいつってさ、羽があって飛べるらしいよ」
「ええ~!マジ?じゃあ、花壇に近づくなって言ったって無駄じゃん。ぷ~んって飛んできてさ、アリサの肌をちくりっ!」
女の子はアリサの肌を爪でつついた。二人は笑いあった。
「あははっ。やめてよっ。じゃあ、あんたの脇のあたりも……ちくちくって!」
「あはは!くすぐったいから~!」
あいつは飛行能力も有している――。もしいきなり襲われたらどうすればいいのだろう?逃げたって無駄だ。羽があるならどこまでも追いかけてくる……。
「こらっ!そこの二人!授業中だぞ!」
「はーい、ごめんなさーい」
二人の談笑は止んだ。だが、タオルの中に顔を隠した私は、羽音を立てながら空を飛び回るダラジャマムシの姿を想像して、肩をぶるぶると震わせていた。
私は授業中、ノートにあいつの漢字を書いた。だ、ら、じゃ、ま、む、し……。
『駄羅邪魔虫』
それぞれの音に自分が知っている禍々しい漢字を当てはめただけの偽名だった。でも、あいつの不気味さには相応しいような気がした。強い毒性があって、アリみたいに小さくて、羽があって飛べて……。
『なぁ、ダラジャマってどんな姿なんだ?』
クラスのグループ通話にこんなメッセージが入って来た。すぐに返信が来た。
『さあね。なんかゴキブリみたい感じなんじゃね?』
『マジー?キモすぎなんだけど』
『いや、俺が聞いた話だと、なんかハチっぽい姿らしいぜ?ほら、スズメバチみたいな凶悪なやつ』
『もっと小さいんだろ?アリぐらいにさ』
ゴキブリ、アリ、ハチ……。私の想像の中でダラジャマムシは何度も姿を変えた。どれであっても私にとって最悪のフォルムであることは変わらない。
『ここで衝撃的スクープ!実は俺、ダラジャマムシの写真持ってんだよねぇー!』
『ええー!マジ?』
『見せて見せて』
私は下にスクロールする気を無くしそうになった。授業中に虫の画像なんて見たくない。虫嫌いの私の本能が無意識のうちに指を止めたのだ。
でも、見たい気持ちもあると言えばあった。世間を騒がしている指定有害虫が一体どんな姿なのか見てみたい。危ない好奇心が徐々に人差し指を画面に近づけていった。
「西川玲奈さん。今は授業中よ。携帯はしまいなさい」
「あっ……ごめんなさい」
あと少しのところで、私は邪魔された。授業が終わるまでも数十分間、私はうずうずする気持ちをなんとか抑えながら耐え忍んだ。チャイムの音とともに、私はすぐさま携帯を取り出した。だが、期待していた物は既に無かった。
『画像は消去してあります』
私は親友の真希と一緒に下校していた。大勢の人とすれ違いながら、交差点の赤信号が替わるのを待っていた。私は鞄から虫よけスプレーを取り出して、さっと全身に吹きかけた。
「ふふ。玲奈のその癖、全然変わらないよね。やっぱり虫が嫌いなんだ。それ、最初は冷感スプレーだと思ってたよ?」
「虫だけはダメなのよ。子どもの時からね。ダンゴムシだって見ただけで血の気が引く――」
「きゃああああ!!!?」
突然の絶叫が交差点に響き渡る。人がぱたりと倒れていた。すぐさま救急車がやってきて、患者を担架の上に拾い上げる。次にやってきたのは警察だった。全身を黄色いスーツに包んだ何人もの警官が降りてきて、辺り一面を掃除し始めた。
「近づかないでください!ダラジャマムシです!ほら、野次馬しないでください!今からここは立入禁止です!危険だから近づかないで!」
「おい!テープでエリアをブロックしろ!スプレー足りてないんじゃないのか?もっと持ってこい!」
私と真希は大急ぎで現場から離れていく。私の心臓は激しく鼓動していた。あの瞬間、あいつは私のすぐそばにいたのだ。もしかしたら私を刺していたかもしれない――。
私は戦慄し、よろめいた。真希は私の肩を支えて、壁側に私を寄せた。真希は心配そうな顔でこちらを覗いていた。
「玲奈大丈夫?顔、真っ青だよ?」
「ち、近くであんなことがあったから。ごめん。水貸して?」
私は真希からペットボトルの水を奪うように取り、喉を潤した。真希は私を日陰に連れてきてくれたようだ。巨大な街路樹が街角に影を作り出していた。セミの騒がしい声が響いている。
「玲奈、知ってる?」
「え?」
「ダラジャマムシってね、まるでヒグラシみたいに鳴くらしいよ。カナカナカナ……って」
「……」
私は目を閉じた。あいつの幻影が瞼の裏に浮かんでくる。今のあいつは、アリみたいに小さくて、ハチみたいに飛び回っていて、ヒグラシみたいな声で鳴いている……。
《ブゥン!》
突然の羽音が耳元を襲う。私は驚いて、真希に抱き着いてしまった。
「お、落ち着いてよ。ただのハエだよ?ほら、玲奈の肩に止まってる」
「ハエでも嫌なものは嫌なの!取ってよ!真希!取ってったら!」
「もうどこかに飛んで行ったよ」
私はゆっくりと目を開いた。そこには、半ば呆れたような顔をした真希がいた。ハエの姿はもうどこにもなかった。
ようやくの思いで家に到着した。もうヘトヘトだった。ダラジャマムシのうわさは確実に私の心を蝕んでいた。恐怖が胸がいっぱいだ。少しでも隙を見せたら、襟口とか袖から入って来て、私を刺すのではないかと気が気ではない。
微生物の一匹ですら、はたき落としてやろうと念入りに服を叩いた。すぐにお風呂に入りたかった。虫は汗の匂いにも反応するらしいし、早く綺麗になりたかった。
「ただいま」
家の中は静かだった。母と父が深刻そうな顔つきで椅子に座っていた。部屋の電気はついておらず、窓から入って来る夕陽の光だけが部屋を明るくしていた。
「ど、どうしたの?お父さん、仕事は?なんで二人ともそんな風にしてるの?」
「玲奈。座りなさい」
父に言われるがままに、私は着席した。母はハンカチで目を拭っていた。
「お前のお兄ちゃんがダラジャマムシに刺された」
「ええ!?お兄ちゃんが!?」
「うぅ……ぐす……。大学から連絡が入って……あの子が……救急搬送されたって……。うぅぅ……」
嗚咽する母を抱き寄せて、父は何度も彼女を撫でてやっていた。私は頭の中が真っ白になった。あいつはいよいよ私の家族すら襲ったのだ。
「落ち着けといっても難しいだろうが、とにかく、今はそんな状況だ。お前も十分気を付けて欲しい。それと、私たちは今から病院に行って、お兄ちゃんに付き添ってくる。玲奈には悪いが、今日は一人でいてくれ」
「え、あ……うん。わかった……」
上の空で返事をする私を差し置いて、両親はさっそく出発の準備に取り掛かった。
「お兄ちゃん大丈夫かな……。熱とか出てるの?」
「それを今から確認しに行くんだ。でも、電話で聞く限りは意識半ばでうなされているらしい。赤い目が……赤い目が……ってな」
「赤い目?それってダラジャマムシのこと?」
しかし、私が訪ね返した時には、父と母は既に家を出ていた。空っぽの部屋に一人取り残されて、私はあいつの悪魔じみた赤い目がこちらを見ているのではないかと、ただひたすらに怯えていた。
寝れない。寝れるわけがない。私はベッドの中で横になっていた。薄目を開けてぼんやりと虚空を見つめている。
ダラジャマムシの出現によって、私の生活は変わってしまった。虫に対する怯えが倍増したし、街中を歩くだけで不安で胸がたまらない。じっとしていられないような不安感が私を蝕んでいた。
私は一度目を瞑って、大きく深呼吸をした。吐く息と共にダラジャマムシに対する恐怖も一緒に出て行けばいいのに。そう願っていた。そして、私は目を開いた。
「……赤い目!?」
二つの赤い点が暗闇に浮かび上がっていた。上下に移動したり左右に揺れたり、細やかな動きが見て取れた。私はすぐさまベッドから飛び降りて、枕を掴んだ。そして、赤い点目掛けて枕をぶん投げた。
「消えて!」
私は絶叫し、そのまま部屋を飛び出した。扉をしっかり閉めて封をする。足がガタガタ震えていた。大粒の汗が背中をぐっしょりと濡らしていた。
しかし、あいつは扉の隙間から抜け出したようだ。玄関側に赤い点が二つ見える。不規則な動きを見せながら、こちらに近づいて来る。
《ブゥン!ブゥン!》
ハチのような羽音が接近してくる。私は半狂乱状態になり、リビングにあるものを手当たり次第に投げ始めた。だが、あいつは実体がない幽霊みたいな存在で、どの攻撃もすり抜けてしまう。
私はお兄ちゃんの部屋に逃げ込んだ。ベッドの上に飛び乗り、毛布に身を包んで息を潜める。こうやって体全体を覆ってしまえば刺される心配はない。あいつをやっつけられるわけではないが、それでも身の安全だけは確保されるのだ。
「……」
私はこの悪夢がさっさと醒めてくれることを望んでいた。朝日と共にダラジャマムシも消えてなくなるはず――。そんな無意味な希望が私を辛うじて正気にさせていた。
《カナカナカナカナ……》
ヒグラシの音。私は息を呑んだ。ダラジャマムシは私の右腕に止まっていた。あいつの足のチクチクとした感触が肌に伝わった。
あいつはご自慢の尻の針で、私の腕を刺す寸前だった。私は急いで腕を振ろうとした。でも、もう遅かった。
《ぷすり――》