棋士団VSナオト道場8
「…?」
(は?)
…と、危ない。顔に出るところだった。
将棋の観戦者は、声は勿論の事、表情や仕草で対局者に自分が気付いた優劣好悪を伝えてはならない。
対局は対局者の物であり、第三者が口出ししてはならないというのが最低限のマナーである。
相手が如何に傲岸不遜、傍若無人、非常識な振る舞いをしていても、こっちがマナーを守らなくていい理由にはならないのだから。
で、だ。
えーと…これは…。
いや!思い込みで結論を出すな。俺の早合点かもしれない、冷静に考えろ!
まず桂跳ねの意味を考えよう、この桂は次に8五と6五に跳ねられるけど、8五は8六に歩がいるから、実質桂を捨てるだけの一手になる。
これは流石に考えにくい…。
なら考えられるのは6五に跳ねて6五同歩を誘い、7七角成、同桂、8六飛車と進める狙いだけど…そんなことするか?
確かに桂馬は銀より価値が低いとされる場面が多い。
とはいえ、タダで捨てていいレベルの駒かと言われるとそんなことは全くない。
他の駒を飛び越えられるというアドバンテージは大きく、桂馬が詰みのキーマンになる局面だって決して珍しくはないのだ。
(後は将来的に歩を手に入れたあと、8五歩と打って同歩を誘い、それを更に同桂と取った手は角に当たってるから、そういう使い方もあるっちゃあるけど…。)
『7四歩』
(うん。ユリちゃんが気付いてないわけないよね…。)
その「8五歩と打って同歩を誘う作戦」を根本から叩き潰すのがこの7四歩である。
8五歩と打って同歩を誘って桂馬を跳ねるには、当然だが8五同歩とこっちが誘いに応じるタイミングまで7三に桂馬がいなければならない。
しかしこのタイミングで7四歩と打つと、打つための歩を手に入れる時間が取れず、8五同歩と誘う手が取れない。
つまりこの7四歩を以て、この対局の形勢はユリちゃん有利に大きく傾いたのだ。
ユリちゃんの表情は窺うも、その表情は厳しいまま動かない。
それもそうだろう、まだ対局が終わったわけではないのだ。
事ある毎にへらへらと笑うような思考の余裕は、対局中の彼女には無い。
そしてユリちゃんの指した7四歩の後、二分も経たずに彼が指した継続手に、俺は目を疑った。
『6五桂』
(うっそだろお前!!)
ごめんなさい表情は全く隠せませんでした…。
声に出さなかっただけ評価してほしい。
これはもう疑いようがない。
桂馬を餌に6六の歩を吊り上げて、角交換から飛車先突破を狙っているのだ。
…しかしこれはあまりに雑な作戦だ。
6五同歩と進めた時点で、既にユリちゃんは桂馬を得し、銀も取れる事が確定しているのである。
最終的な駒割りで大きな戦力差が生じるだろう…。
『6五同じく歩』
『7七角成』
『7七桂』
『7六歩』
『7六同じく銀』
『8六飛』
と、ここまで実に軽快に指し手が進んだが、一応副団長サンにも作戦はあったらしく、7六歩の突き捨てを入れる事で8六飛から7六の銀、7七の桂、6八の飛車と連続で取れるように準備を整えている。
しかし、そう進行する為には最短でも3手必要になってしまう。
3手必要という事は、ユリちゃん側は銀二枚に金一枚におまけの歩まで取れる。
駒割りで表すと
副団長サン:桂、銀、角、飛車
ユリちゃん:桂、銀、銀、金、角
となり、ユリちゃんが飛車を損する代わりに金銀を余分に得る事になる。
そして、最大の問題はこうなった時の盤面だ。
『6四歩』
『7六飛』
『6三歩成』
『7七飛成』
『5三と』
『5八龍』
『5二と』
『5二金』
5二金でと金が掃われ、局面は一息ついたように見えるが、見ての通り副団長サン側の陣営はボロボロである。
高美濃囲いに一振れもされておらず、金銀三枚の連結を保っているユリちゃん陣営に対し、副団長陣営は玉傍に金駒が全くおらず、少し離れた位置に金が一枚残っているのみ。
誰がどう見ても陣形の優劣は明らかであり、その上ユリちゃんの手駒は桂角金銀とより取り見取り。
そして手番はユリちゃんである。
事ここに至って副団長サンは理解したらしい、現局面はもはや戦いというレベルにはない事を。
序盤はおろか中盤ですらない。
先手が後手をどう詰ますか考える盤面。
勝ち負けを論ずる余地などほとんどない圧倒的大差での終盤戦、すぐそこまで即詰みが迫った危機的状況だという事を。
副団長サンはようやっと状況の悲惨さに思い当たったようで、顔色は真っ青を通り越して紙の様になっていた。
周囲から響いていたユリちゃんへの悪口雑言もぱったりと絶え、一つ一つの指し手に「よし!」だの「そうだ!それでいい!」だのと合いの手を入れて煽っていた歓声も今や全く上がらない。
それもそうだろう。
それらの合いの手は疑いようなく指し手への肯定、賛辞を意味している。
そして「彼らが賛同したその指し手の行く末が」このボロボロに崩れた自陣なのだ。
ユリちゃんが対局しているのは副団長サンただ一人であるが、副団長サンの指し手に賛同していたという事実が、図らずも今、少なくない数の棋士団団員とユリちゃんとの圧倒的な棋力差を浮き彫りにしたのである。
さて、現状であるが、ユリちゃんの残り持ち時間は5分半。
副団長サンが5二金と指してから4分ほど経過しており、いま彼女は持ち時間を限界まで使って、玉への寄り筋を読もうとしている。
棋力差を痛感しているであろう団長サンにとって、この沈黙は真綿で首を絞められる拷問に等しい。
万が一即詰みまで読まれてしまったら、団長サンは成す術無く負けてしまうのだから。
俺の予想を裏切らず、副団長サンは血の気が一切引いた顔色で「いつまで考えているんだ」だの「早く指せ」だのと吠えているが、ユリちゃんは微塵も意に介さない。
常日頃、悲喜交々の声が飛び交う道場で指しているのだ。
騒音程度の番外戦術では、彼女の集中力はびくともしない。
持ち時間が5分を切り、5二金を指してからの考慮時間がそろそろ5分を超えようという頃、ユリちゃんが指した継続手は意外な一手だった。
『8六角』
(あぁ…安全策で行くことにしたのか。)
それは俺の読み筋にもあった手であり、直接的には自陣に迫った龍に働きかける手。
確かに龍に当たってはいるが避ければ何ともなく、8八龍と避ければ逆に龍が角に当たる。
龍を追い払うには一見不十分に見える手である。
しかし、この角打ちは単に龍へ働きかけるだけの手ではないのだ。
門下生は角打ちの意図が見えないのか、検討用の将棋盤を見ながらあーでもないこーでもないと話しつつ、しきりに首をかしげている。
うちの門下生がそうなのだから、それより遥かに棋力で劣るであろう棋士団の面々など言うまでもない。
自身の番外戦術が功を奏し、悪手を誘発できたと喜色を浮かべながら、副団長サンはスクリーンに手を伸ばす。
そこに仕掛けられた毒にも気付かずに。
『8八龍』
『3一金』
「…え。」
間髪入れない応手を受け、凍り付く棋士団の面々、そして副団長サン。
そう、先の角打ちの真意は龍取りではない。
この王手を寄り筋へ繫げる為に打たれたものなのだ。




