氷亀との戦い
蒼牙は鳥居をくぐった瞬間、狐に化かされた気持ちになりました。何故なら砦の中、言うならば室内に居たはずなのに、目の前に広がるのは――
「吉備太郎殿ならば、面妖なと言うのだろうな。拙者も言いたいくらいだ」
そうです。目の前には竹、竹、竹の竹林が広がっていたからです。
蒼牙は知る由もありませんが、まるで吉備太郎が初めて竹姫と出会った聖黄山のような、いやそのものと言うべき場所でした。
「ふうむ。触感からして、本物の竹のように思えるが……これはどういうことなんだ?」
周りを警戒しつつ、竹を触って幻覚かどうか確かめる蒼牙。
「まあいい。速く式神を倒して先を進まなければ――」
「そこの若いの。そんなに焦ってどうする気なんじゃ?」
思考の途中、背後からかけられた声に振りむくと、そこには樫の杖を持った、今にも倒れそうな小柄で具合の悪そうな、仙人のような姿をした老人が立っていました。
「どうじゃ? ゆっくりして――」
最後まで言うのを待たずに、蒼牙は槍を繰り出しました。理想としては頭部を貫きたいところですが、命中率に難があるため、胴体を狙います。
槍は胴体の真ん中、正中線に狙いを定めて、貫こうとします。
しかし――
「無駄じゃよ。わしには効かん」
老人は年老いた身でありながら、素早い槍捌きよりもなお速く動き、回避しました。
それどころか、無防備になった蒼牙に接近して持っている樫の杖で攻撃しようとします。
「――しゃあ!」
蒼牙は槍を反転させて柄の部分で老人に反撃します。だがこれも易々と避けられます。
けれど老人は追撃をやめました。
蒼牙が体勢を整えたからです。
「危ない危ない。このまま攻撃していたら、貫かれていた」
その割りには余裕な老人。
「老人のくせに随分動きが軽やかだ」
「老人ではないのう。わしの名は氷亀という。これでも式神じゃよ」
そう言って咳をする氷亀。
「まったく。毒憤といい拙者の相手は老人ばかりだな」
「毒憤とやらは知らないが、わしは見た目が年寄りなだけじゃよ」
「年寄りにする意味があるのか? どうせなら強い武人にするべきじゃないのか?」
槍を構えつつ氷亀の話に乗る蒼牙。
「貴様も会ったであろう蒼龍の反省じゃよ。蒼龍にはなかった老練さと老獪さが必要だったから、わしが創られた」
蒼牙は気づかなかったのですが、その言葉どおりならば蒼龍のほうが先に創られたことになります。
「よく分からん。陰陽師になるくらい頭の良い人間の考えなど、理解できん」
「ほう。お主は主人を『人間』だと思うのか? 半々妖ではなく?」
主人とはどうやら吉平のことらしいです。
蒼牙は「ああ。人間だと思っている」と素直に答えました。
「吉備太郎殿が友人としているのだ。人間じゃないはずがない」
「お前は自分の考えで主人を人間と断じておらんのか。それは残念だな」
あからさまに落胆した氷亀。
「まあいい。お主はここで死んでもらう。お主には勝てぬ理由が三つある」
単純な蒼牙は「なんだと? 三つだと?」と素直に訊いてしまいました。
「まず一つ。この地形じゃ。竹が密集している場所でそのような長柄の得物は満足に動かせぬ。竹は柔軟性に優れているからのう。へし折ることは敵わぬ」
それはもっともなことでした。払おうにもしなるだけで、決して折れそうもありません。
「二つ目はわしの身体能力じゃ。これでも四体の式神の中で最速じゃ。先ほど見せた動きはほんの挨拶程度じゃよ」
嘘は言っていないようです。先ほどの軽やかな動きは老人らしからぬ動きでもありました。
「そして最後の三つ目。わしにはとっておきの能力がある。それは――」
氷亀は樫の杖をまるで刀のように持ち、そしてするりと抜きました。
杖だと思っていたら、なんと仕込み刀だったのです。
「――式神奥義、『氷結斬撃』じゃ」
刀を振るった瞬間、竹が斬れたと同時に、全体が凍りつきました。
「斬ったものを凍らせる能力。これでお主に勝ち目がないことは分かったじゃろ。今なら見逃してやる」
蒼牙は「どうしてわざわざ能力の説明をするんだ?」と訊ねました。
「不意討ちでも何でもできるだろう」
「わざわざ説明してやったのは、お主に勝ち目がないことを証明するためじゃ」
氷亀は肩を竦めました。
「若い命を散らすんじゃない。生きれば見えてくる道もあるじゃろ」
それを聞いた蒼牙は――
「それはまやかしだ!」
あっさりと否定しました。
「生きて道をつなぐことと、生き恥を晒すことは違う! 少なくとも吉備太郎殿は選ばなかった!」
「…………」
「吉備太郎殿はお前の主人とは違う。汚濁と恥辱に塗れたお前の主人とは!」
それを聞いた氷亀の顔が怒りに歪みました。
「主人を愚弄するつもりか!」
「先に愚弄してきたのは、お前のほうだ! 氷亀! 拙者は逃げぬ! たとえ不利な相手が眼前に居ても!」
そうして、蒼牙は槍を構えました。
「この地形が不利に働くのは目に見えている。しかしそれでも退くわけにはいかない」
「何故、そこまで意固地になる? 生きることを諦める?」
氷亀は理解できないらしく、明らかに動揺しています。
「吉備太郎殿を見てきたからだ。吉備太郎殿の生き様を知ってしまった以上、逃げるのは格好悪いことだ」
蒼牙は戦いが起こる直前だというのに、笑顔になりました。
「吉備太郎殿に顔向けできる、格好良い生き方を拙者もしないと、仲間として恥じるしかあるまい!」
氷亀は呆然と見つめていましたが「そうか。ならば死ぬがいい」と樫の杖の鞘を放り投げました。
氷亀は考えます。薙ぐことも叩くこともできないこの状況。蒼牙ができるのは突くことだけ。それを避けるかいなせばこちらの勝利。
氷亀は自身の勝利を確信していました。
氷亀はじりじりと竹の影に隠れるように動きます。そしてちょうど蒼牙との間合いに竹が入ったところで――
「はあああ! 狼牙槍!」
蒼牙が突貫してきたのです。
狼牙槍? 馬鹿め。竹が緩衝材になって――
そこまで考えたところで、氷亀は後方に吹き飛びました。
「ぐはああああああ!」
まるで獣に喰われたような感覚。
後ろに群生している竹にぶつかって、ようやく自分がやられたことを自覚しました。
「氷亀。貴様の敗因は三つだ」
蒼牙が氷亀に近づきながら説明をします。
「一つ。狼牙槍に地形は関係ない。この技は鋼鉄すら砕ける。竹などは比べ物にならない。二つ目は最速の式神と謳っていたようだが、吉備太郎殿のほうが何倍も何十倍も速い。それを見続けていた拙者にとって、貴様は遅すぎる」
そして最後にこう言い放ちました。
「三つ目だが、能力は見せ札ではなく、伏せ札であるべきだ。それでこそ、切り札になり得るのだ。ま、最後は受け入りだが」
そう言って、蒼牙は喉元に槍を向けました。
「悪いがここを通るためには、貴様を倒さなければいけないようだ」
氷亀は呆然とした顔から不敵な笑みになりました。
「馬鹿そうに見えて、意外とやるのう。若いの」
「蒼牙だ。最期に名前を教えてやる」
氷亀は笑顔で言いました。
「わしの負けじゃ。まいった」
その瞬間、竹林と氷亀は綺麗さっぱり無くなりました。そしてだだっ広い道場のような室内へと変化したのです。
「とどめを刺さなくても、負けを認めさせたらこうなるのか」
蒼牙は後ろを振り返りました。
そこには吉平の元へ向かうための扉がありました。
「早く行かねば。吉備太郎殿よりも先に」
蒼牙は焦っていました。
もしも吉備太郎と吉平が出会ってしまえば、和解か殺し合いのどちらかになってしまいます。
「和解してこちらの味方になれば良いが、そうはならないだろう。友人同士の殺し合いは避けねばならぬ」
だから蒼牙は自分が吉平を殺すつもりでした。
それが吉備太郎のためになると信じて。




