最期は笑っていた
「よくぞ、おらを殺してくれたな」
致命傷を負ったのに、もう助かる見込みもないのに、愉快そうに笑う牛鬼を見て、吉備太郎と蒼牙は不思議に感じました。
いや吉備太郎は不思議以上に不快感を覚え始めました。
せっかく勝ったのに負けたような気分でした。
「何故笑う! どうして喜ぶ! 牛鬼、貴様はもう助からないんだぞ! 死ぬんだぞ!」
吉備太郎の疑問に牛鬼はなおも笑って答えました。
「おらは……元々、死にたくて仕方がなかったんだ……」
その言葉に、吉備太郎たちは衝撃を受けました。特に吉備太郎はどう思って良いのかも判然としなくなりました。
「死にたくて仕方がなかった? 意味が分からない! 拙者たちにも分かるように言え! 牛鬼!」
蒼牙の叫びに呼応して牛鬼は語り出します。
「もう、おらは人間を殺めるのに疲れたんだ。面倒になったんじゃなくて、疲れたんだ。どうしようもなく、疲れた……」
牛鬼は笑顔から本当に精神を消耗した者にしか出せない顔――諦念の表情になりました。
「初めは楽しんで殺していた。でも、もう嫌なんだ。だって、人間だって生きているじゃないか」
牛鬼の言葉は本当に悲しみを込められていました。
「おらが殺す前の人間たちは、偽り無く幸せそうだった。男と女は共に働き、老人たちはそれを見守り、子どもはすくすくと成長していく。この美しい輪を、壊すのが嫌になったんだ。だから、おらは逃げ出した」
「逃げ出した? どこから? 仲間から?」
蒼牙が問い質すと牛鬼は「全てだ」と言いました。
「故郷も仲間も地位も責任からも逃げ出した。あのお優しい大親分からも逃げてしまった。なんて情けない。でも逃げるしかなかった」
牛鬼の目から涙があふれてきました。
「おらは鬼の幹部だった。だから大親分の目的を知っていた。でも従えなかった」
「……その大親分の目的は?」
吉備太郎は感情を殺した声で訊ねます。
「人間を皆殺しにすること」
牛鬼も短く答えます。
「そ、そのようなことが許されるものか! そのようなことができるものか!」
蒼牙は怒りを覚えました。何の罪もない民を全て殺すなど正気の沙汰ではありません。
「できるだろう。大親分なら、できるだろう。あの鬼ほど執念深い者は知らない」
牛鬼はそれが分かっていたのです。いつか必ず人間は滅ぼされると。
「だから、逃げ出しても、逃げなくても、結果は変わらない。おらはそれが嫌で、それからも逃げ出したくて、寝ていた」
牛鬼の億劫で面倒くさがる性格はある意味逃避でした。何事もやる気を見せなければ、何事も考えずに居られるのです。
「それならば何故、村人に食糧を強請ったりしたんだ?」
蒼牙は疑問を投げかけます。
「そんなに嫌なら人知れずに死ねば良いじゃないか。死ぬのが怖いのか? それとも他に理由があるのか?」
蒼牙は武者ですので、自分の責任の取り方は自害しかないと思っています。そのように教育を受けていました。
すると牛鬼は泣きながら可笑しそうに笑いました。
「たくさんの人を殺めて、それで自分一人が楽になろうだなんて、虫が良すぎる話だと思わないか?」
牛鬼はとうとうと説明します。
「こうして村人から食糧を強請れば、必ず退治しようと武者が来るだろう。お前たちのように、おらを殺せる武者が。都に程近い美濃ならば、いつか必ず来るかもしれない。そう思っていた」
牛鬼はそれから恨めしそうに自分の肉体を叩きます。
「この身体では自殺すらできない。崖から飛び降りても死ねない。首を吊っても鎖が引きちぎれる。分かるか? 自殺のできない苦しみを」
蒼牙はそれを訊いて黙ってしまいました。自害できない苦しみは武者である蒼牙には痛いほど分かるからです。死ぬべきときに死ねない武者ほど情けないものはありません。
「鬼の仲間でもおらを殺せるものはいない。いや大親分や幹部ならば殺せるだろう。だけどそれは無理だ。鬼は仲間を殺さないし、仲間を殺した鬼は粛清される。たとえ頼んで殺したとしても」
牛鬼はもうどうしようもなかったのです。
「この牛の仮面を被ったのは鬼の仲間から身を隠すためだ。牛鬼という名前も偽りだ。全て偽りだらけなんだ」
嘘で塗り固めた牛鬼。
吉備太郎は牛鬼の告白を黙って聞いていました。その心に巡るものは怒りであり、悲しみであり、哀れみでもありました。
そして何よりも虚無感に支配されていました。
鬼のために戦ってしまったという虚無感。
それが吉備太郎を虚しくさせる一因でもありました。
吉備太郎はこれで復讐を果たしたと言えるのかと自問自答しました。自殺の手助けをしただけじゃないのかと思いました。
だから、口から出たのは全くの無意識でした。
「牛鬼、貴様は伊予之二名島を滅ぼしたことに加担しているのか?」
冷静というより温度が極限まで冷え込んだような凍える声でした。
味方である蒼牙でさえ、震えてしまうような声。
牛鬼はその質問の意図が分かりませんでした。吉備太郎が生き残りだとは思わなかったからです。
「加担している。あれは幹部全員で行なったことだからな」
吉備太郎はかあっと身体が燃えるような怒りを覚えました。
「ならば、この刀に見覚えはないか!」
吉備太郎が突き出すのは父親の形見の刀。
かつて御上からもらったものだと自慢げに話した父親の大切な刀でした。
「五年前、ある村で貴様らと戦った武者のものだ! 心当たりはないか!」
吉備太郎の刀を見て、牛鬼は驚きました。
「あのときの武者か! あれは強かった」
吉備太郎は身を乗り出します。
「知っているのか!?」
「ああ。あいつは強かった。手下を数名やられた。おらにも傷を負わせた」
牛鬼は悔しそうに顔を歪ませました。
「おらには手が負えなかった。だから――大親分に出張ってもらった」
吉備太郎は全身が熱く燃え盛るような感覚に陥りました。
その大親分が、父親の仇だとようやく知りました。
「その人間は大親分とも戦ったが、勝負は一瞬で着いた」
吉備太郎は「どういうことだ?」と問い質しました。
「理由はない。大親分は誰よりも強い。それだけだ。一騎打ちなら、誰にも負けない」
吉備太郎は信じられない思いでした。
「あの父上が……一騎打ちで負けるとは」
すると蒼牙は衝撃を受けている吉備太郎に訊ねます。
「吉備太郎殿、他に訊きたいことはありますか?」
蒼牙は鬼に特別の恨みはありません。だから死に掛けている牛鬼が哀れに思っていました。楽にしてあげたいと思いました。
「……一つだけ訊かせてくれ」
もはや吉備太郎は牛鬼のことはどうでも良くなりました。
「その大親分とは何者なんだ?」
牛鬼は笑って言いました。
「言えないな。仲間を抜け出したけど、仲間を裏切ることなんてできやしない」
吉備太郎は「そうか」と一言だけ呟きました。
「蒼牙。とどめは私が――」
「いえ、拙者がします」
蒼牙はにっこりと微笑みました。
「無理をしないでください。少しは拙者を頼ってください」
そして蒼牙は槍を傷跡に向けました。
これならば心臓を貫けるでしょう。
「言い残すことはあるか?」
蒼牙は最後に牛鬼に言いました。
牛鬼はにっこり笑って応じます。
「ああ。やっと楽になれる」
それが最期の言葉でした。
こうして牛鬼はこの世から去りました。
人を殺すのが嫌になった。
そんな鬼が居るとは吉備太郎には想像できませんでした。
この出来事は吉備太郎の胸に楔のように打ち付けられて、離れませんでした。
牛鬼の最期は笑っていました。
吉備太郎は自分には到底できないと思いました。人間笑いながら死ねる者は数少ないのです。
きっと自分は後悔しながら死ぬんだろうな。
そう思いながら、蒼牙と共に洞窟を後にしました。




