近江へ行く
夜が明けて、吉備太郎と竹姫は近江へ向けて出発しました。
吉備太郎は旅立つ前に白鶴仙人に竹姫を助けてくれたことや助言をしてくれたことのお礼を言いたかったのですが、どこにも姿が見えず、居場所も分からなかったので断念しました。
「あの仙人はどうもつかめないし読めないのよ」
竹姫は呆れたように苦笑いして旅路の準備をしました。
「都から逃げ出したとき、ふと白鶴仙人のことを思い出したのよ。それで礼智山に来てどうしようか悩んでたらいきなり目の前に居て『吉備太郎と別れてしまったのか?』って訊いてきたのよ。知ってるくせに」
「確かに未来が分かるのであれば、そのような真似はしなくてもよいのにな」
その行為は謎で、吉備太郎は首を傾げました。
謎と言えば、二人は気づかなかったのですが、どうして白鶴仙人は吉平を紹介したのでしょうか?
吉平の『悲願』である『鬼を倒すこと』を叶えるためでしょうか?
それとも吉備太郎の復讐のためでしょうか?
後々のことを考えると、それを訊くべきでした。まあ白鶴仙人のことですから、誤魔化されるのが関の山ですが、それでも何故誤魔化されたのかを考えることはできます。
鈍い吉備太郎はともかく、鋭い竹姫ならば気づいてもおかしくありません。
結論から言えば、気づかれないため、質問をされないために白鶴仙人は姿を見せなかったのです。
仙人らしいのからしくないのか分かりませんが、用心深いことです。
そうとも知れず、吉備太郎たちはのん気に礼智山から旅立ったのです。
「それで、近江へどうやって行くのよ? 地図なんてないじゃない」
「都より北東と聞いているから、方向さえ間違いなければ辿り着けるだろう」
大雑把な考えです。それで都に辿り着けたのが不思議なくらいです。
しかしその判断に誤りはなく、むしろ正解だったのです。
本来進むべき道のりから外れなければ、近江へ連れてくれる者たちに会えなかったのですから。
それは旅をしてから二日後のことでした。
まず日が昇る方向から進む方角を決めて、二人はいつものように歩いていました。
木々に囲まれた街道に沿っててくてくと歩いていると、前方から大勢の人間の足音が聞こえてきました。
足音だけではありません。誰かが何かを命じる声も聞こえてきます。
いち早く気づいた竹姫は吉備太郎に「誰か来るわ」と合図をして街道の脇の茂みに隠れました。
「誰かが近づいてくるな」
声を潜めて呟く吉備太郎。
「山賊とかじゃないわよね?」
竹姫も声を落として様子を窺います。
どすんどすんと足音が大きくなり、二人の間に緊張感が漂います。
恐る恐る覗き見ると、近づいてきたのは――武者たちでした。
どこかで戦う前なのか、武者たちは一様に強張った顔をしていました。
一同は刀や槍を携えていました。鎧姿で今すぐにでも戦えそうです。
「どこかで何かあったのかもしれない」
吉備太郎が訊こうとして、ちらりと横を見ると固まって一点を見ている竹姫。
顔色は真っ青になっています。
固まっていた身体がガタガタと震えました。
吉備太郎はどうしたのかと心配になり、竹姫の様子を見ると、彼女の細い腕に何やら巻きついていました。
ぬめぬめと光って蠢くもの――蛇でした。
それほど大きくはないですが、竹姫の右腕にいつの間にか巻きついていたのです。
「竹姫、今取るから――」
声を出すなと言おうとした吉備太郎。しかしその言葉がきっかけとなり、竹姫は蛇を現実のものと認識してしまったのです。
だから生来蛇が苦手である彼女が大きな悲鳴をあげてしまったのは仕方のないことで、誰も責めることはできないでしょう。
「きゃああああああああああああああ!」
つんざくような悲鳴が街道、いや土地全体に響き渡りました。
竹姫は半狂乱になりながら右腕を振り回し、暴れ出します。
「きゃああああ! 吉備太郎! 早く取って! これ! 早く取ってよ!」
「分かったから騒ぐな! 今取るから――」
「きゃああああああ! 死ぬ! 死んじゃうわ!」
「大丈夫。毒のない蛇だから――」
「気持ち悪いわ! 早く取って!」
吉備太郎は宥めて落ち着かせようとしますが、聞き入れてもらえません。
「そこで騒いでいる者! 出てこい!」
案の定、気づかれて武者たちが二人を取り囲みます。吉備太郎は茂みから出ました。
「貴様何者だ!」
「怪しいものではありません」
「きゃあああ! きゃああああ!」
五人の武者が槍の切っ先を向けます。
「何故隠れていた!」
「えっと、山賊だと思いまして」
「助けて! 助けて!」
「もう一度訊く。貴様らは――」
「お願いだから取って!」
「旅の者です――」
「死んじゃう! 気持ち悪くて死んじゃう!」
「……この子の蛇、取ってあげてもいいですか?」
武者たちは顔を見合わせて「ま、まあいいだろう」と一人が代表して許可しました。
「ほら。もう蛇は居ないよ」
吉備太郎は素早く蛇を取り、奥の茂みに投げ捨てました。
「……怖かった。怖かったよ……」
呆然とする竹姫を余所に、武者たちは「ちょっと大将の元へ来い」と命令しました。
「子ども二人の旅など、怪しすぎる。調べさせてもらう」
こうして二人は武者の大将の元へ引き出されてしまったのです。
「……ごめん」
恥ずかしいのか情けないのか分かりませんが消え入りそうな声で謝る竹姫に「気にしなくて良いよ」と優しく声をかける吉備太郎。
武者たちの大将は吉備太郎と同じくらいの大柄で、口髭を蓄えた、ずっしりとした体格の武者でした。
大将は吉備太郎たちを見て「なんだ子どもではないか」と呆れていました。
「怪しい者と言うのだから夜盗の類だと思っていたが。子どもならば捨て置け。急がなければならぬ」
大将は部下に離してやれと言いました。
吉備太郎は武者たちを眺めます。
およそ二百は居るでしょうか。何らかの目的で行軍していることが見受けられます。
「早く御上のところへ向かわなければ。大和への道のりはどのくらいだ?」
大将が大声で確認すると吉備太郎は「御上は近江に居ます」とつい答えてしまいました。
大将とその周辺の部下たちは一斉に吉備太郎を見ました。
「小僧、何故御上が近江に居ると分かるのだ?」
大将が訊ねると吉備太郎は竹姫に目配せして「言っていいのか?」と確認します。
竹姫は「もう言わないと収拾つかないわよ」と静かに言いました。まだ落ち込んでいるみたいです。
「えっと右大臣さまがおっしゃっていました」
それを聞いた部下たちは失笑してしまいました。
「なんで貴様のような子どもが右大臣さまと話ができるのだ」
部下の一人が訊ねますと吉備太郎は「助けてもらったんです」と正直に言いました。
「そのときに聞いたんです。大和ではなく近江に御上が居ると」
部下たちは顔を見合わせました。嘘を吐いているようには見えませんし、吐くとしたらもっと信じやすい嘘を言うはずです。
それに吉備太郎の目は嘘を吐くような目をしていませんでした。
「それに大和に居るというのは、中納言さまの虚言です」
大将と部下たちは今度こそ驚いたのです。
「何故中納言さまが虚言なされたのだ!」
大将が吉備太郎に詰め寄りました。
「えっと、御上を安全に連れて行くための虚言だと右大臣さまは言ってました」
大将は「なるほど。言われてみれば……」と考え込みました。
「このような得体の知れない子どもの申すことを信じるのですか?」
年老いた部下の言葉に大将は「信じてみるのも悪くない」と答えます。
「辻褄は合う。この小僧に会えたのは神仏のお力かもしれぬ」
そして大将は号令をかけます。
「皆の者! 我々は近江へ向かう!」
竹姫はそれを聞いて、大将に向けて言いました。
「あたしたちも連れてって!」




