信じる心
野を越え山を越えて、吉備太郎は白鶴仙人が居る礼智山へと辿り着きました。
ここまでの道中、野蛮な山賊に襲われたり、野生の熊に遭遇したりしましたが、鬼平太や酒呑童子、茨木童子と戦いで成長した吉備太郎にとってはそのようなものたちは敵ではありませんでした。
それほどまでに吉備太郎は強く素早くなっていたのです。
さて。礼智山の麓に着いた吉備太郎でしたが、近づくと山は大きく広く、どこを探せば良いのか見当もつきませんでした。
「とりあえず白鶴仙人さまと出会った河原を目指そう」
吉備太郎は山に足を踏み入れました。
「あの方は未来が見えると言っていた。ならば私が来たことも理由もお見通しなのだろう」
吉備太郎にしては至極真っ当な考え方でした。身体や剣術だけではなく思慮のほうも成長したようです。
しかし、いややはりと言うべきでしょうか。その考えにはある欠陥があったのです。
それは白鶴仙人本人が会おうとしない限り、会おうと思っても会えないのです。
未来が見える人間――仙人は自分に不都合な出来事を回避することができるのです。
加えて仙人は善人でもなければ悪人でもありません。善悪を超越した存在なのです。初対面の際に親切にしてもらったことは仙人の気まぐれだったのかもしれません。
そしてこうも考えることができます。もしも親切な好々爺であるのならば、礼智山の麓で吉備太郎を待っていたことでしょう。
しかし白鶴仙人は出迎えませんでした。それは会う気がないとも取れてしまいます。
あるいは会うべきかどうか見定めているのかもしれません。
山道を進み、木々をかき分けて、吉備太郎はようやく河原に到着しました。
きらきらと輝く清流。大小の白い石がごろごろと転がっています。
「確か、ここで白鶴仙人さまと出会ったっけ。あのとき焼き魚を貰った」
数週間前のことなのに、何年も前のことのように思われるのは、吉備太郎に起こった様々な事柄があったせいかもしれません。
吉備太郎はしばらくその場に座って、白鶴仙人がやってくるのを待っていました。
「来ないな……私の考えが甘かったのか?」
その考えに至ってしまった吉備太郎は何を思ったのか急に立ち上がりました。
そして大きく息を吸って吐き出すように大声で叫びました。
そのとき叫んだのは――
「竹姫! どこに居るんだ!」
白鶴仙人の名ではなく、竹姫の名でした。
呼べば出てくるわけでもないのに、吉備太郎は叫び続けます。
「ここに居ないのか? 返事をしてくれ! 私は君に会いに来た!」
吉備太郎は自分でも訳が分からずに叫んでいました。
これはおそらくですが、吉備太郎は既に限界だったのです。
身体ではなく、心が限界だったのです。
「頼む! 返事をしてくれ……!」
必死になって叫び続ける吉備太郎の表情は悲壮に満ちていました。
それもそのはずです。吉備太郎は未だ子どもなのにこの数週間で様々なツラい体験をしてきました。
戦友である山吹が死に、友人である吉平が裏切って鬼の仲間になるなど、常人では耐え切れないことに耐え続けていたのです。
しかしもう限界は近づいてきていました。
もしも竹姫が死んでいれば吉備太郎の心は今度こそ壊れてしまうでしょう。
それほど吉備太郎にとって竹姫は大事な友人だったのです。
けれどそうはならなかったのです。
「吉備太郎、なの?」
からんからんと薪が落ちる音。
振り返るとそこには――竹姫が立っていました。
呆然として吉備太郎を見つめています。服装は都に居たときよりも簡素で動きやすいものへと変わっていますが、それ以外は普段と同じでした。
「竹姫? 本当に竹姫なのか?」
信じられない思いで、一歩一歩近づく吉備太郎に対して竹姫も同様にゆっくりと近づいていきます。
二人の手は重なり、暖かみを感じられて、ようやく互いが生きていることを実感しました。
「吉備太郎、ああ、吉備太郎!」
竹姫の大きな瞳からぽろりと涙が零れます。
「あなたよく無事で……心配したのよ……なんで早く来てくれなかったのよ……」
吉備太郎は胸が一杯になって「うん、ごめん」としか言えませんでした。
二人はそれから手を取って黙っていました。嬉しくて言葉にできなかったのです。
吉備太郎はもちろん、竹姫のほうも吉備太郎の安否を慮っていたのです。
「なかなか感動的な再会じゃな」
唐突に、突然現れた白鶴仙人は軽口を叩きながら出会ったときと同じように岩の上に座っていました。
「白鶴仙人さま……?」
「――っ!」
竹姫は吉備太郎の手から離れてしまいました。顔は真っ赤でどうやら恥ずかしがっているようでした。
「そんなに恥ずかしがることななかろうに。まあよい。吉備太郎、よくぞ生き残ったのう。お前は運に恵まれておる」
仙人はにっこりと微笑みました。
「今生きていることは奇跡じゃ。鬼と戦ったのもそうじゃが」
そこで白鶴仙人は言葉を切りました。
「吉平のことは――残念だったな」
吉備太郎は俯いて、何も言えなくなりました。
「……吉平が裏切ったってやっぱり本当なの?」
竹姫は疑わしいという視線を向けました。
「信じたくないけど、信じるしかないんだ」
吉備太郎は竹姫に今まで隠していた感情を吐露しました。
「私は吉平さんを友人だと思っていた。信じていたんだ。でもみんなが吉平さんが裏切ったと言っている。だから信じることができなくなった。私は――」
ぱあんと河原に音が響きました。
吉備太郎は頬の痛みが何なのか、最初はわかりませんでしたが、目の前の竹姫が怒っているのを見て「殴られたんだ」と気づきました。
「そんなこと――そんな情けないことを言うな!」
竹姫は吉備太郎に向けて指を指して、説教しました。
「あなたが信じなくて、誰が吉平を信じてあげるのよ! 周りで何か言われたからって、吉平が裏切ったなんて信じちゃ駄目よ!」
吉備太郎は竹姫がこんなに怒っているのを見たのは初めてでした。
「いい? あなたは吉平の友人なんでしょう? それなのにどうして信じてあげられないの!? どうして裏切ったなんて思っちゃうの!? もしかしたら何か事情があるのかもしれないって、どうして思えないの! 頭は兜の置き場所じゃないのよ!」
吉備太郎は――黙って聞いていました。
「どんなに周りが悪く言っても、あなただけは信じてあげないといけないのよ! そうしないと、吉平は独りになってしまう! あなたもあたしも独りになったから、気持ちは分かるのよ!」
吉備太郎の目に光が宿りました。
「吉平を最後まで信じてあげなさい。それが友人でしょう? お願いだから、あなただけでも信じてあげて……」
吉備太郎は竹姫に向かって力強く頷きます。
「ごめん。そうだね。私が信じてあげないといけなかった。あの吉平さんが訳も無く鬼の味方をすることはない」
吉備太郎は大声を出して、肩で息をしている竹姫に近づき――
「ふえ?」
強く優しく抱きしめたのです。
「ちょっと! 吉備太郎、あなた――」
文句を言おうとして、竹姫は気づきました。
身体が震えていたことを。
「……吉備太郎?」
「ずっと不安だったんだ。竹姫に会えなくなると思うと、死にたくなるくらいに悲しかった。そしてありがとう。誰に言われたかったんだ。吉平さんを信じることを」
震える吉備太郎に竹姫は仕方ないなあという顔でにっこりと微笑み、背中に手を回し、抱きしめ返しました。
「これからはずっと一緒に居るわ。安心して。あたしも吉備太郎にまた会えて良かった」
その言葉にどっと涙が溢れる吉備太郎。
二人はしばらくの間抱きしめ合いました。
「……わしも居るのじゃが」
その台詞が何度も口に出てしまいそうになる白鶴仙人。
しかし邪魔はさせたくなかったのです。
これから起こる残酷な運命に飛び込ませる前に。
ひと時の休息を与えたかったのです。
それは仙人らしからぬ優しさでもありました。




