吉平の葛藤と鬼の取引
豪雨が降りしきる中、倒れた影が一つ。
倒れたのは――吉備太郎でした。
「なんでだよ……なんで、そんな真似をしたんだ、吉備太郎ちゃん……」
吉備太郎を見下ろして、吉平は悲しげに呟きます。
「なんで、君は――」
この状況になる前、吉備太郎は納刀したまま吉平に迫りました。吉平は当然、抜刀術を使うだろうと思い込んでいました。
それくらい本気なのかと吉平は吉備太郎に呪術を行使します。
神経毒に似たもので、対象者の身体の自由を奪う呪術でした。鬼には効かない呪術でしたが、普通の人間である吉備太郎には有効でした。
なるべく傷つけたくないと吉平はこの呪術を使うことを選択しました。
問題は吉備太郎の速さでした。
音と同じくらいの速さで迫り来る吉備太郎に合わせて呪術を行使する。その難しさは熟練の陰陽師といえども容易ではありませんでした。
刀の間合いも考えて――五歩。
その間合いで呪術を行使しようとしました。
行使しようとして――驚きました。
「あああああああああああああ!!」
吉備太郎は刀を抜かずに、素手で殴りかかったのです。
刀を使わなかった吉備太郎に勝ち目などありませんでした。
驚きながらも呪術を行使した吉平は倒れ臥す吉備太郎に疑問を投げかけます。
「どうして、君は刀を使わなかったんだい? 間合いが短くなるだけではなく、確実に俺に勝てるわけでもなく、なんでそんな真似をしたんだ?」
吉備太郎は吉平に対して何かを言おうとしました。しかし呪術が解けていないので、何も言えませんでした。
「吉備太郎ちゃん……」
吉平が吉備太郎に手を伸ばそうとしました。
「待て! 何をしているんだ!」
吉平を制したのは山吹でした。信じられない思いで吉平を見つめていました。
「山吹、これは――」
吉平が弁解しようとしたときに山吹は声を張り上げて、吉平を否定する言葉を放ちました。
「何故だ! 何故貴様は裏切った!」
裏切った。吉平が最も嫌う言葉でした。
半々妖として、化け狐の孫として忌み嫌われていた吉平は今の地位に就くまで、並々ならない努力をしました。
しかし努力すればするほど、周りからは疎んじられていったのです。
それは吉平の優秀さが起因していました。
化け狐の孫という得体の知れない出自と陰陽師としての能力が貴族たちには不気味に映ったのです。
周りから認められようと努力すれば恐れられます。無能であると断じられれば見捨てられます。
だから――吉平は誰からも認められることを求めていました。
けれど、それも壊されてしまいました。
傍から見れば裏切ったと判断されてもおかしくないでしょう。
言い訳をしなければいけないと思い込んだ吉平は山吹に近づこうとして――
「寄るな半々妖! 汚らわしい!」
山吹の言葉に、吉平は心が折れてしまいました。
「そんなつもりは、なかったんだ……」
山吹が吉平を無視してよろめきながら吉備太郎に近づいても、彼は呆然として動くことはできませんでした。
「吉備太郎! しっかりしろ!」
山吹は吉備太郎に近づき身体を揺すりましたが吉備太郎は反応できませんでした。呪術が効いていたからです。
「俺はどうすればよかったんだ……」
茫然自失になってしまった吉平に声をかけるものがいました。
「なあ。そこの人間。取引しないか?」
声をかけたのは――悪逆無道の鬼でした。
先ほどまで静観していた茨木童子はいやらしい笑みを浮かべて笑っていました。
雷に打たれて身体も動けないはずなのに、殺されてもおかしくない状況の中、余裕を持っているのは流石と言えましょう。
「取引だと? 貴様は何を言って――」
「てめえと小娘を生かしてやる。だからあいつらを――殺せ」
厚かましい申し出に吉平は「ふざけるな」と一蹴しました。
「そんな取引など成立するか。それに貴様に生かしてもらう理由が――」
「鬼の援軍が来ている。十、いや二十の軍がな」
吉平の動きと思考が止まりました。
「なんだと……?」
「寝ているから分かるんだ。鬼の足音がな。俺の言っていることが疑わしいのなら、呪術を使って確かめてみるがいい。子の方角だ」
吉平は素早く鳥の式神を飛ばして、上空から地上を俯瞰しました。
豪雨で視界が暗い中、吉平は見つけました。木々をなぎ倒して真っ直ぐこちらに進んでくる二十の軍勢を。
「貴様! 果たし合いじゃなかったのか!」
「文にそんなこと書いた覚えはねえよ」
「鬼に横道はないはずじゃないのか!」
茨木童子はせせら笑いました。
「兄弟は甘すぎる。本来ならどんな手を使っても敵を殺すべきだ」
茨木童子は恨みを込めた目で吉平を睨みます。
「ましてや先に卑怯なことをしやがったてめえらに、律儀に正々堂々なんてできるわけないだろうが!」
吉平はこれから起こることを想像しました。そして考えます。
鬼の軍勢に三人で勝てるわけが無い。
虎秋が居てもどうしようもない。
逃げることも不可能だ。山吹は俺を疑っているし吉備太郎ちゃんは動けない。
この場を切り抜ける方法があるのか?
この緊迫した状況を打破する方法は?
答えは――ない。
吉平はなおも考えましたが、方法はありませんでした。
「さあ。二人を殺せ。そうすればてめえと小娘は生かしてやる!」
吉平は悩んで悩んで悩んで。
解決策が見つからないことに気づいて。
どうしようもなくて、そして決断しました。
「――分かった。殺そう」
その言葉に茨木童子はにやりと笑いました。
「やってみせろ。てめえの覚悟を見せろ」
吉平はゆらりと立ち上がり、山吹に近づいていきます。
「吉備太郎! おい、大丈夫か!?」
吉平が背後に近づいても山吹は吉備太郎の安否を確かめることに夢中でした。
「――山吹」
吉平は呼びかけました。
「なんだ吉平――」
振り向いた山吹に、吉平は持っていた小刀で容赦も無く山吹の胸に――突き刺しました。
「――えっ?」
山吹は自分に何が起こったのか理解できませんでした。
ただ胸の辺りが熱く燃えているような感覚。
「さようなら、山吹」
吉平は小刀を引き抜きました。傷口から血液が吹き出ました。
「あ、ああ。何故だ、吉平……」
山吹は消えゆく意識の中、自分の家族の顔が浮かんでは消えていきました。
そして残ったのは。
吉平と幼馴染として楽しく遊んでいたときの思い出でした。
「吉平、おにいちゃん……」
それが最期の言葉でした。
山吹が絶命した後、吉平は吉備太郎に切っ先を向けました。
「俺が生き残るためじゃない。この子を守るためなんだ。この子は罪もない。この子の生まれてくる命にも罪は無い。だから、ごめんな。吉備太郎ちゃん」
吉平は小刀を逆手に持って、動けない吉備太郎に向けて――
草原中に雷鳴が轟きました。
まるで日の本に起こる戦乱を予想しているようでした。
夜が明けて。
吉備太郎はようやく目を覚ましました。
「……吉平さんは? 山吹さんは?」
自分の身に何か起きたのか確認する前に、二人の安否を確かめる吉備太郎。
「二人はどこだ? どこに居るんだ?」
ふらふらと立ち上がろうとして、吉備太郎は見つけてしまいました。
「――山吹さん!」
草原で倒れている山吹を見つけた吉備太郎は近づいて山吹を抱きかかえました。
しかし、彼女はもう生きてはいませんでした。
「そんな……誰が何をしたんだ……」
吉備太郎は山吹の死体を背負って、吉平のことを呼びました。
「吉平さん……吉平さん!」
虚しく響く声に応える者はいませんでした。
吉備太郎はどうすれば良いのか分かりませんでしたが、とりあえず山吹を背負ったまま都を目指すことにしました。
「吉平さんなら、都に戻っているはずだ」
しかし吉備太郎に待ち受けているものは、残酷な現実だったのです。




