吉備太郎の奥義
御所に行くまでの数日間、吉備太郎は吉平の門番であり、その正体は式神である虎秋に剣術の手ほどきを受けました。
父親との稽古以外では実戦経験がない吉備太郎。その経験の無さを埋めるために吉平は虎秋に命じたのです。
「吉備太郎殿、お主は人を斬ることにためらいは無いのか?」
木刀での数度の打ち合いの後、虎秋は吉備太郎に問いました。
「――ためらいはあると思っていました。しかし実際、あなたと立ち会ったとき、それはありませんでした」
吉備太郎は持っている木刀を見つめます。
「こちらに殺意を持つ虎秋さんと向かい合ったとき、初めに思ったのは恐怖ではありませんでした。自分でもどんな感情が渦巻いていたのか、分かりません。もしかすると、何も感じなかったのかもしれません」
虎秋は黙って吉備太郎の言葉を聞いていました。
「人を斬ることもそうです。容赦も躊躇もなく刀を振れたのは、覚悟があったのか、それとも――」
吉備太郎はそれ以上何も言えませんでした。
「お主はまだ子どもなのだ」
虎秋は吉備太郎に諭します。
「十才から五年間、独りきりで生きてきたのだ。非情にならねば生きていけなかっただろう。感情を殺さなければ死んでしまいそうだったのだろう」
虎秋は厳しい表情で吉備太郎に言いました。
「だからといって、お主が人をやめてしまえば憎んでいる鬼と変わりはしない。そのことだけは心に留めるのだ」
虎秋はそう言って、吉備太郎に刀を渡します。
「真剣で稽古するのですか?」
「ああ。木刀ではできぬ『技』を教えよう。これは鬼に有効だが、一撃で決めなければならぬ。そう心得よ」
虎秋は刀を構えました。それは今まで見たことのない構えでした。
「相手に勢いよく向かい、それで居ながら全身から無駄な力を抜く」
吉備太郎はこの『技』を見たとき。
「これは私の奥義になり得る『技』だ……!」
そう確信しました。
そして現在。
「あぁ? 坊主、逃げてばかりじゃねえか」
鬼と相対した吉備太郎は大刀を避けるのに必死でした。
大刀は間合いが伸びる反面、扱うのが難しいのです。長さがあるということは重さは二乗になるわけで倍ではききません。
しかし七尺ほどある鬼にしてみたら、普通の刀を扱っているのと同じのようでした。
吉備太郎が間合いに入ろうとすると、大刀が横薙ぎに振るわれます。
それを避けて再び入ろうとすると返す刀で横薙ぎ。この繰り返しでした。
鬼には剣の技術はありませんが、間合いに入らせることなく一方的に攻撃できる点のみで吉備太郎を圧倒していました。
しかし、鬼のほうも焦りを感じていました。
いえ、焦りよりも不思議に思う気持ちが勝っていたのです。
「どうして! 貴様は! 死なんのだ!」
もう少しで斬れるのに。
楽に斬れるはずなのに。
それを刹那で避ける吉備太郎。
その動きは音と同じように素早いのです。
鬼は知りませんでしたが、吉備太郎は野山を駆けて、獣たちを狩っていました。
獣の中には吉備太郎より脚の速いものが多く居ます。
それらに追いつくために吉備太郎は山道を素早く走る術を身につけました。
そうでなければ、とっくに吉備太郎は飢えて死んでしまったでしょう。
五年間、山道を走り回った結果です。
村の舗装された地面ならば、誰よりも速く動けるのです。
吉備太郎の武器は生まれてからずっと習っていた剣術ではなく。
皆が死んでしまった五年間で身につけた脚力だったのです。
吉備太郎はこの鬼を倒さなければならないと思いました。自分以外の人間では太刀打ちできないだろうと思っていたからです。
鬼のほうもこの子どもを殺さなければならないと思いました。子どもといえどもここまでやるとなると鬼の脅威となり得るからです。
ここで倒すという互いの利害は一致しました。だからどちらが逃走するという選択肢は無くなったのです。
他の武者たちは吉備太郎と鬼の攻防を見守っていました。自分たちでは足手まといになるだろうと思い知らされたのです。
吉備太郎は鬼の大刀を避けつつ考えます。
この鬼は最初に斬りかかったとき、刀を避けました。つまり、斬ることはできる。斬り殺せると確信しました。
今、吉備太郎にできることは攻撃を続けることでした。
いずれ鬼も精神力と集中力を乱すでしょう。それまで粘ることが大事なのです。
この均衡が崩れたのは、殺し合いを始めてだいぶ経った頃でした。
それは攻防の狭間、鬼が無用心に振るった上段斬りでした。
勢い余って地面にめり込んだ大刀。
吉備太郎はこれを勝機と見ました。
大刀を引き抜こうとする鬼の脇腹を、吉備太郎は狙い、袈裟斬りを放ちました。
「ぐあああ!」
鬼の汚い悲鳴と共に血飛沫が上がりました。
吉備太郎は内心「よくやった!」と自分を褒めたい気持ちでした。
――しかし。
「なめんな坊主が!」
一瞬の気の緩み。
鬼はめり込んだはずの大刀を怪力で引き抜き、吉備太郎に刀を振るいました。
「しまっ――」
吉備太郎は咄嗟に刀を立てて防御しましたが、怪力によって振るわれた刀は吉備太郎を吹き飛ばしました。
激しい音を立てて家屋にぶつかり、その衝撃で肺から空気が抜けました。
「が、はあ――」
吐血して意識を失いそうになりました。
「俺に傷をつけるとは。なかなかやる坊主だったが」
鬼がゆっくり近づいてくるのが分かりましたが、吉備太郎は未だ動けません。骨が何箇所か折れてしまっているからです。
「子どもの肉は久方ぶりだ。さて、いただくとしよう」
鬼が吉備太郎に手を伸ばそうとしました。
「うおおおおおおおおお!!」
猛々しい雄叫びと共に、鬼に斬りかかる者が居りました。
それは薙刀を持ち、走った勢いで鬼の肩を切り裂きます。
「ぐああああ!? 何奴!」
振り返るとそこには――
「黙って死なせるわけにはいかない!」
山吹が血走った目で鬼を睨んでいました。
「この女……! よくもやってくれた――」
最後まで言えませんでした。
山吹に怒りを向けていたから分かりませんでした。
鬼を狙っている陰陽師が居ることなど。
「――神弓術式」
吉平が放った矢は吸い込まれるように鬼の左目を射抜きました。
「ぎゃああああああああ!」
地獄の底の亡者のごとく、鬼は吼えました。
矢を引き抜こうとしましたが、矢に触れると手が爛れてしまうほど熱く、触れませんでした。
「神聖な力、悪しきものを祓う呪術を込めた矢だ。鬼に効くだろう」
厳しい顔で鬼を睨む吉平。普段の飄々とした雰囲気はありませんでした。
「貴様らぁあああ! 全員皆殺しだああ!」
鬼は痛みと屈辱に身を焦がしながらも、怒りだけで大刀を振るいます。
「――こっちだ!」
鬼は声のするほうへ向きます。
吉備太郎は刀を納めて、今まさに抜こうとする姿勢で鬼を見据えます。
「坊主ぅううう!! 貴様から喰らい殺してくれるわぁあああああ!」
鬼が走り出し、吉備太郎に迫ります。
「――抜刀術。虎の太刀」
吉備太郎は身体の力を抜き。
野山で鍛えた脚に力を蓄え。
音を超えた速度で鬼に迫り。
虎の如く刀を抜き鬼を斬る。
「――あ?」
鬼の最期の言葉はあっけのないものでした。
胴を一刀両断された鬼は、自分が斬られたことに気づかずに死にました。
吉備太郎は、鬼が崩れ落ちたことを確認すると、刀を仕舞い、その場に膝をつきました。
「吉備太郎ちゃん! 大丈夫かい!?」
吉平は駆け寄ると吉備太郎は「骨と内臓を痛めました」と苦笑いしました。
吉平はホッとした後、吉備太郎を叱りました。
「たった一人で鬼に立ち向かうなんてどうかしてるよ!」
「そこの半々妖と同じだ。無茶をしすぎだ」
山吹も呆れた顔で言います。
吉備太郎はきょとんとして言いました。
「でも二人とも助けてくれたじゃないですか」
こうして吉備太郎の初めての鬼退治が終わりました。
しかし吉備太郎は知りませんでした。
退治した鬼が十三匹の鬼の中でも弱い部類であることに。




