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獣行の果てに  作者: アザとー
罪喰い
9/29

 獣は興奮しきった鼻息をまき散らしながら、母の体に鼻先を近づける。はじめは乳房のあたりに、ゆっくりと……

「ああ、そんなに焦っちゃダメだったら」

 コロコロと笑い声をあげて、義母は獣の頭を抱え込んだ。しなやかな背中は丸く前に倒れる。

 獣の顔は至極ゆっくりと動き回り、徐々に下へと降りてゆく。

「焦っちゃ……ダメだって言ったのに……」

 その鼻先が下叢へとたどり着いたのだろうか、義母の背中は大きく後ろに沿って、腰のあたりが特にくぼんだ複雑な曲線となって神殿の暗がりの中に跳ねた。

 私たちは彼女が短く上げる嬌声を聞きながら、男を神殿の外へと引きずり出し、扉を閉めた。

 神殿の前では幸助が、相変わらず踊り狂っている。淳之介はこれを押しのけると男を鈴の真下に座らせた。

「今回のさばきを言い渡す!」

 なるほど、獣は人の言葉を話さない。だから淳之介なり義母なりが、こうしてさばきの結果を伝える代弁人というわけなのだろう。

 淳之介の声は凛として、境内いっぱいに響き渡った。

「今回、この男は無罪である。以上、よく心得て、今後この男を責めることなど無いように留意せよ!」

 聴衆はこの言葉にいきりたち、不服の声をあげた。特に一番前にいる鎌を持った老婆など、数歩を歩いて神殿の足元に出る。

 淳之介はちょうど賽銭箱の裏に立っており、階段の下で腰をかがめた老婆は彼を詣でているような具合にも見えた。

 老婆が言う。

「この男は、ウチの庭先に干してあった魚を盗んだ、間違いなく盗人ですがな! そんな盗人が島内にいると思ったら、おちおち漁にも出られやしない!」

「これは獣の決めたことだ。文句があるのなら神殿の扉を開けてやろうか?」

「そ、それは……」

「考えてもみよ、この男を盗人に堕としたのはお前たちだ。お前たちは近所づきあいもあり、これに病気の子がいることも知っていた。もちろん看病のために、この男が長く漁に出ていないことも知っていたはずだ。知っていながら、お前たちはこの男に何をしてやった?」

「うう……」

「獣は、そんなお前たちのすべてを罪だと決めたのだ、この男だけではない、彼を罪人に堕とした罪をも罪であると」

 みな、首を垂れて無言であった。ただ、幸助だけが楽しげに再び踊りを始める。

「ち、血が欲しい、せ、先代さまは血が欲しい」

 淳之介がこれにかぶせて恫喝する。

「さあ、この男を連れて帰るか、それともここにいる全員の血をもって贖うか、選べ!」

 幸助が、もはや狂気さえ感じるほどに甲高い声で笑う。

「わ、悪い奴、せ、先代さま食う。く、食われろ、食われろ!」

 皆の顔からさっと血の気が引いた。明るい日差しの中だというのに、暗く冷たい牢にでも放り込まれたかのように身をかがめて震える者もいる。

 おりしも、義母の絶頂の声が扉の向こうからこぼれた。細く、甲高く、裂くような声はともすれば悲鳴に聞こえなくもない。

「獣さばきはこの男を無実だとした、それでいいじゃあないか!」

 誰が言ったかはわからない。あとは慌ただしく、数人がボロのようにのびている男を担ぎ上げ、石畳の上を足早に去ってゆく。他の者たちもまるで走るような足取りで、誰一人として神殿の方を振り向こうとはしない。

 急に静かになった境内には、幸助が踏み鳴らす足踏みの音しか残らなかった。

 淳之介はいまだ踊り続けるこれの方に顔を向けて、ふうっと表情を緩める。

「幸助、終わったよ」

「お、終わり? 血は?」

「血は流れなかった、平和で何よりじゃあないか」

「そ、そうか、へ、平和」

「幸助、平和は血よりも尊いものだ」

「と、尊い? ち、血よりも、先代さま、よ、喜ぶか?」

「ああ、きっと喜んでる。だが、腹を空かせていることだろう。サトに頼んで、何か用意してもらっておくれ」

「わ、わかった」

幸助がぴょこぴょこと跳ねるように立ち去るとすぐさま、淳之介は私の体に手を伸ばして腰のあたりにそれを絡めた。

「怖かったかい?」

確かに獣さばきの風習、それそのものは恐ろしいと思った。この時は罪人は処罰されずに無事に返されたが、あれがもしも罪有りと判じられていたら?

「血をもって贖うとは、やっぱり……」

控えめな声で聞いた私の質問に、淳之介は丁寧にうなづいてくれる。

「あの獣は罪人を食う。あの男から罪の匂いを感じさえすれば、その場で首を食い落としただろう」

「そんなことをして、駐在さんに捕まったりしないのですか?」

「駐在所は海の向こう、内地にしかない。駐在はわざわざ船に乗って、しかも恐ろしい謂れのあるこの島へなど来たがらない。ここでは獣が唯一の法なんだよ」

 言いながら、淳之介は私の腰をさらに引き寄せ、「ふう」と熱いほどの吐息を耳の裏に吹きかけてきた。

「久子、さっき、母が何をしたのか見たかい?」

「ええ、私たちを守るように、その、獣とアレを……」

「獣は自分の妻には牙をむかず、絶対に服従する。さっきみたいに獣が血に飢えながらも許しを下した時、渇きを慰めるために自分の身体を差し出すのが『獣の嫁』の仕事だ」

「私にも、あれをやれと?」

「そうだ。いやか?」

 不意に彼の膝が私の両膝を割り、両腕はとらえられて……私は神殿の扉に縫いとめられるような形でとらえられた。

 背後の扉、闇をこぼすその奥から聞こえる荒い呼吸の音は『獣』のものだろうか。そして、私の目の前にもまた、一匹の肉欲の獣が息を荒げて立っている。

「久子、僕はいずれ理性さえ失い、一匹の獣と化すだろう。人目をはばかることなく君の体をむさぼり、あまつさえ人肉をすするような畜生に堕ちる。だからそれまでは……せめて人間らしい愛を君に捧げたい」

「人間らしい愛ですか、これが」

 私はすでに両眼をぎらつかせ、なめるような目線をこちらに向ける彼の胸を押し戻そうとしたが、それは徒労でしかなかった。


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