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ぼろ雑巾のような男が引き立てられて神殿へ昇るのを眺めながら、私はぶるぶると体が震えだすのを抑えられずにいた。
「ねえ、あの人はどうなるんですか」
傍らに立つ夫の袖を引く。彼は私の体を抱き寄せてはくれたが、無言であった。
「淳之介様、あの人は!」
彼がゆっくりと首を振る。
「わからない」
「わからないって、どうして?」
「すべては獣が決めることだからだよ」
「獣が何を決めるっていうんですか」
「彼の罪を……いや、違うな、彼の処遇をだ」
彼がそのまま私の背中を押すから、私はいやいやながら歩を進める。
男はすでに突き飛ばすようにして神殿へ入れられており、神殿の奥からは不穏な獣の唸り声ばかりが聞こえる。そんなところへ進んで入ろうなどと誰が思うだろうか。
私はか弱く拒む声をあげた。
「あの、淳之介様……」
「ごめんな、久子。こらえておくれ」
私はついに神殿の中へと引きずり込まれてしまった。
幸助が表から神殿の扉を閉じる。
「け、獣さばき、は、はじまりはじまり~」
芝居小屋の前口上のようなおどけた物言いが、かえって恐ろしかった。
以前は気が付かなかったが、ここはひどく獣臭い。うめき声の合間には荒い鼻息が聞こえ、気のせいかよだれの垂れる大きな口をべろりと嘗め回す舌遣いの音まで聞こえる。
動物園の猛獣の折に入れられたような気持になって、私は夫の腕に強く身を寄せた。
「ここで何が始まるんですか」
「獣さばきだよ。ごらん」
裁かれるべき男はすでに満身創痍であるのだから、板の間の上に転がって、死にかけた虫のように頼りなく手足を動かしていた。
神殿の奥からぬうと現れた獣が、この男の前に立ちはだかる。男は少しだけ顔をあげて、この獣を見上げた。
「ああ、先代さま」
獣は二つ足でしっかりと立ち、この男を見下ろして「ぐう」と唸っただけである。それは全く無慈悲な獣の声であり、これに人の言葉で話しかける男の行為はあまりに滑稽であった。
それでも男は、獣の顔を見据えたまま話す。
「俺はハツばあさん家の干物三匹をちょろまかしました。悪いとは思っとりますが、うちには病気の子がいて、その看病でもう長いこと漁にも出られんじゃでしょうがない」
義母が少し取り繕ったような声を大きく張り上げた。
「それがお前の罪状のすべてか!」
「へえ……いいえ、そこまでして魚を食わせてやったのに、うちの子は、昨日、死にました。俺がもう少し早く罪を犯す覚悟をしておれば、もっと栄養のあるもんを食わせてやれば、あの子は死ななかったかもしれない。子を守る覚悟すらできなかったこと、これも俺の罪でさ」
これを聞いた私は心の臓のあたりがぎゅうっと苦しくなるほど男を哀れに思ったのだが、義母の声は少しも揺らがなかった。
「これより、獣さばきを始める!」
低い唸り声がそれに応える。獣はぐいっと腰をかがめて男の体に鼻先を寄せた。
私は悲鳴をあげそうになるのをこらえて、夫に取りすがる。
「お願い、やめさせて! あの人はたった三匹の干し魚を盗んだだけじゃないですか!」
「たとえ三匹でも盗みは盗みだ」
「罰なら、十分に受けたでしょう、お子さんまで亡くして、悲しみの底にいる人に、これ以上何をしようというんです!」
「何をするのか、決めるのは獣だ。僕たちはただの見届け人でしかないんだよ」
表から、どん、とんと、相変わらず楽しそうな足踏みの音がする。幸助はまだ踊っているようだ。
獣はゆっくりと腰をかがめ、裁かれるべき男の背中に鼻先を近づけた。
「ごらん、ああして罪の匂いをかぎ分けているんだよ」
その言葉通り、ふすんふすんと鼻を鳴らす音が、神殿の厳かな空気を汚すように響き渡っていた。
「島で暮らすというのは、内地で暮らすのとは勝手が違うことも多い。何しろ四方を海に囲まれていて、島民全員が顔なじみなんだから、一度犯罪が起これば逃げ場所がない。これはもちろん犯罪者だけではなく、被害者となる者にもだ。今回の罪人はただの干物盗人だったが、これが殺人狂だったりしたらどうなる? 島は全滅しかねない」
獣の瞳は明り取りからの日差しを受けてぎらぎらと金色に輝いている。幸助が足踏む音はどしん、ずだんとますます大きくなる。
隣から聞こえる夫の声が、ガラスのように澄んで冷たいものであることが唯一の救いであった。
「たとえ罪人とはいえ、誰かが勝手な禍根でこれを罰したりしたら、必ず島の人間関係のどこかに亀裂が入るだろう。皆が顔なじみだというのはそういう不便があるのだよ。だから、罪を裁くものは人間であってはいけない」
「獣さばき……」
「そう、人よりも絶対に強い神格を持つ者、この決定に従うことが一番平和な解決となる。神罰であるのならだれを恨むこともなく、罪人だけを摘み取れるからね」
「でも、獣などにさばきを任せては、罪人も善人も関係ないのでは」
「そうではないよ、久子。獣であるというのは人とは違う善悪をわきまえているということだ。言葉などに騙されず、ほかのやり方でその者の真意を測ることができるということだ」
確かに男の体に鼻先を押し付けた獣は、いまだ牙をむかずにいる。両腕を床に着けて四つん這いになり、目だけをギラギラさせて、何かを思索しているように見えなくもない。
ついに男の耳元に鼻先を押し付けて、獣は一つだけ唸り声をあげた。
「さばきが出たようだ」
白い毛におおわれた鼻面が肉を割いたように押し広げられ、大きく開いた口元からはみっしりと詰まるように生えた白い牙がこぼれた。
「母を見ていなさい。君が将来するべき『獣の嫁』の仕事があれだ」
獣は鼻先を天井に向け、島中にとどろけと言わんばかりの大声量で咆哮をあげる。「ごう、ごう」と確かに二度。
「彼は赦された!」
叫ぶが早いか、淳之介は獣の腹の下に飛び込んで満身創痍の男を引きずり出した。
男は弱っている身ながら、いささか抵抗してみせた。
「はなせ、先代さまに俺を食わせてくれ、おミヨも死んで、俺にはもう生きている意味なんか何もないんだ!」
「さばきは下った、素直に従え」
男が手足を振り回すから、傷口から流れる血が小さなしずくとなって獣の白い毛に飛んだ。
まるで白雪の上に椿の一花を落としたような美しさだったが、獣はそんなものを解しはしない。そう、獣は人のように芸術など愛したりはしないのだから。
血のしずくの匂いをふすふすと嗅いで、獣は明らかに興奮している。
「久子、手伝ってくれ!」
淳之介の声に促されて、彼と一緒にぐったりとした男の体を引っ張る。だが獣はすでに男に狙いを定めており、ただ肉を食らうために大きく口を開いた。
そのときだ、義母が私たちと獣の間に立ちはだかったのは。
「よしよし、おなかが空いたのかい?」
そういいながら彼女は、自ら帯を解いて衣を落とした。
こちらからは彼女の背中が見えるばかりだが、年を感じさせないまっすぐ伸びた腰は女の妖艶を表すなだらかな曲線を描き、美しい。唯一年を感じさせる肌のくすみさえ、神殿の中にわずかに差し込む光を受けては、産毛が光るようなみずみずしさかと錯覚する。
美しいというよりも、神々しいというべきか。
私に片腕を引かれた男が何か口の中でつぶやいたのは、念仏に違いない。神社の形をしたものに念仏など無知もはなはだしいが、なにかそうした神仏に対する敬意のようなものを表さずにはおられなかったのだろう。