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欲張って、特に大きな大根の一片を取ろうと箸を出したその時、家の柱も揺れるんじゃないかというほどの獣の咆哮が響き渡った。それは庭先を抜け、板張りの廊下で反響してはいたが、神殿から聞こえてくるのだと、すぐにわかる。
とつぜん、幸助が嬉しそうに両手をひらひらと泳がせて、歌うような節調子をつけて叫んだ。
「せ、先代さま、先代さま、血を欲しがっている!」
「これ、幸助!」
たしなめた声は義母のものだが、その声音の中に幼子に対する愛情のようなものを感じて、私はその違和感に首を傾げた。そう、ただの叱り声とは違う。例えば遊びに心を入れすぎてはしゃぐ子供をなだめるような、深い深い慈愛が含まれているのだ。
もっとも幸助の性質を考えれば、子ども扱いされるのも致し方なしか。そう逡巡する私は、声も上げずにこの二人のやり取りを見ていた。
幸助は不貞腐れたように体をぶらぶらと揺らし、唇を尖らせる。
「せ、先代さま、血が欲しい、い、言ってる」
「馬鹿を言うんじゃないよ、獣が意味のある声なんか上げるもんかい、あれはただの唸り声さ!」
「い、意味、ある、俺、わかる。ち、血が欲しい、言ってる」
この言葉に、義母は一気に激昂した。
「仮にお前が獣の言葉がわかるとしても、『あの人』が、血が欲しいなんて言うものか! あの、優しい……優しかったあの人が……」
それでも幸助は頑として譲らない。
「ち、血が、血が欲しい……って」
「幸助っ!」
「血が……来る」
彼が急に義母から顔をそむけ、開け放った障子の外に目を向けた。
「ち、血が、来た」
庭先遠く、鳥居のある方向から、老若男女の十数人が石畳に上るのが見えた。
その人垣は、たった一人の男を取り囲んでいる。いや、『取り囲んでいる』という言い方は少し生易しすぎるか。
その男の顔が人相もわからぬほど腫れ上がっているのは、明らかに暴行された後だからだろう。すでに膝の動きさえままならないのか、両脇から体格の良いいかにも漁師風の男に抱えられて、引きずられているのだ。
石畳の上を罪人のように引き回されているその男の姿に、私は恐怖して震えた。
淳之介は私の隣にちょうど座っていたのだが、片方の腕をぬっと差し伸べて私の肩を抱く。そして静かな声で囁いた。
「行こうか」
「行くって、どこに?」
「獣のところだ」
何か恐ろしいことが起こるような予感がして、私は首を横に振る。しかし、淳之介はこれを許さずに厳しい声を出した。
「行くんだ。行かなくてはならない」
「何のために?」
「それが白鬼家のつとめだからだよ」
私の肩を強くつかむ彼の手は震えている――声も。
「他のわがままならいくらでも聞いてあげよう、君の願いなら一つたりとて逃さずに叶えてあげたい。でも、祭事に関しては君を甘やかしてやることができないんだ。わかっておくれ」
彼に肩を押されて庭先に降りると、ぼろぼろの男はすでに石畳の上に正座させられていた。その両脇に立つ男たちがしゃんと背中を伸ばした直立不動である様子が、時代劇のお白洲を思わせる。
だとしたら、それを取り囲む老若男女の一団はお白洲を見に来た町人役だろうか、それにしては少々物騒にも見えるのだが。
一番手前にいる老婆は小さな草刈り鎌を握りしめている。しわだらけの頬にわずかな赤みが差し、荒い呼吸に合わせて肩を大きく上下させているのがいかにも剣呑だ。
他の者も手に手に鎌やら棒切れやらを持って、誰もが怒りの表情を隠そうともしない。
義母はこの人たちに向かって丁寧にお辞儀をした。
「お集まりで、ご苦労様です」
怒りをあらわにしてはいても、この人たちは義母に対する礼儀だけは忘れないようだ。
「今日はこいつめの『獣さばき』をお願いに上がりました」
先頭に立つ老婆が頭を下げると、皆がそれに倣って、深々と頭を下げた。
私は淳之介に肩を抱かれたまま、少し離れてこの様子を見ていたのだが、その横を、幸助が躍るような足取りで駆け抜けていった。
「け、獣さばき、せ、先代さま、呼ぶ」
神殿の短い階段を駆け上り、幸助がけたたましいほどに鈴を振る。
「く、来る、来る来る! せ、先代さま!」
石臼を引くような「ぐう」という唸り声が鈴に応えた。
これを聞いた幸助は大喜びで両手を打ち鳴らし、足を交互に踏み鳴らして躍るようなしぐさを見せた。
「せ、先代さま、先代さま、お、俺は今日もいい子です!」
それは異常な光景だ。
凶器を手にした人々はたった一人の男を取り囲み、石畳に正座させられた男は顔を深く伏せて裁きを待つ風情だ。
それに対し幸助は、この世の何もかもが楽しいといった様子でいつまでも踊り狂っている。凄惨な光景は自分のすぐ足元にあるというのに、それさえ全く存在しないかのようにただ、楽しく。
無垢であるというのは残酷であることと同意なのだ。例えこの場で皆がいきりたち、手にした鎌でこの男の命を刈り取ったとしても、それは幸助自身の楽しい気分を何一つ傷つけることはないだろう。
彼はただ、踊り続ける。
義母はそんな幸助を押しのけて神殿の扉を開いた。
「さあ、裁かれるべき者をここへ!」