1
正直な話、初夜は痛みのうちに訳も分からず済んでしまった。もっとも、これは生娘だった私が小説や雑誌から読み集めた知識を基に夢を膨らませすぎていたせいだろう。
性行為などただの行為でしかなく、男に抱かれただけで女体の神秘に至ったり、愛の真髄を悟ったりといったドラマティックなことなど起こるわけがない。
ただ、淳之介がひどく気を使って丁寧に私を抱いてくれたことだけはわかった。
彼は指と舌とで私の体中をまさぐり、善いトコロを探し出しては丁寧にソコをほぐしてくれた。だからこそ私のカラダは熱を帯びた蜜にまみれ、彼が胎内に押し入ることを許してしまったのだから。
ひとしきりの行為が済んだ後で、淳之介は私の体を抱きしめるようにして脱力した。
もちろん二人とも一糸まとわぬ裸なのだから、欲熱冷めやらぬ汗ばんだ素肌が大きく擦れ合う。つい先ほどまで生娘だったというのに、私はこの心地よい肌をもっと味わいたくて、彼の背中に腕を絡めた。
「あなた」
呼べば、淳之介は少し乱れた呼吸の中に返事を混ぜる。
「どうした、キツかったか?」
「少しだけ」
「そうか、ごめんな」
そういいながら淳之介は私の唇を吸い上げた。汗で強く絡んだ肌はさらに強く擦りあわされて甘く香る。
「あ……」
小さく嬌声を漏らせば、彼がほほ笑んだ。
「善かった?」
はにかみながらうなづけば、彼はきらきらとまぶしいほどに輝いた表情をしてくれる。
「そうかそうか、善かったか」
苦しいほどに抱きしめられて、彼の腕の中にとらえられた私は、それでも幸せだと感じていた。
「淳之介様……は?」
「ん、僕がなに?」
「気持ちよかったですか?」
「もちろん気持ちよかった。だけど、肉体的な満足より、君と今、こうしていることのほうが気持ちよいかな」
「私もです」
笑顔を交わして、それでも体は一ミリとて離れぬよう強く抱き合ったままで、彼は言った。
「少し寝よう。明日は島のみんなに挨拶をして回らなくてはならないからね」
素直にうなづいて彼の胸に顔をうずめる。そしてそのまま二人で、お互いの素肌を抱いたまま朝まで眠った。
だから翌朝、幸助が起こしに来てくれた時には少し困ってしまった。
「あ、朝餉、用意できた」
幸助はいきなりふすまを開き、ずかずかと部屋へ入ってくる。夜具をかぶってはいても、それ一枚を剥げば体は昨夜の蜜事のあとを絡めたま まの裸であるのだから、私はすっかり狼狽して淳之介の体に縋りついた。
淳之介は笑いながら布団の中から片手だけをあげて幸助を制する。
「朝の支度は自分たちでやるからいいよ」
「で、でも、お、俺の仕事、これだから」
「そうだな、昨日まではお前の仕事だった。だけど今日から、僕の朝の支度は妻である久子の仕事だ」
「な、ならばせめて、ふ、布団だけでも」
なおも近づこうと一歩進みだした幸助に淳之介の険しい叱責の声がとぶ。
「幸助、それ以上こっちに来てはいけない!」
「な、なんで?」
幸助は不思議そうに首をかしげて立ち尽くしたままだ。どうやら彼は夫婦というものが夜中にどんなことをしているのか知らぬらしい。
幸助という男はそれほどに無垢な男であった。
彼と付き合いの長い淳之介は、もちろんこのことを心得ている。だから余計な説明などしない。
「なんでも、だ。僕がダメだと言ったことはダメなんだと、教えただろう?」
幸助は大きく後ろに飛びのき、ぶるぶると震え始めた。
「ご、ごめんなさい」
「そこまでおびえなくても大丈夫だ。『獣』はこれくらいで怒ったりしない」
「ほ、ほんとうに?」
「ああ、本当だ」
「じゃ、じゃあ俺、朝の仕事、な、なにすればいい?」
「台所へ行って、サトさんを手伝ってきておくれ。最近腰が痛いと言っていたから、喜ばれるだろう」
「わ、わかった!」
ばたばたと走り去る幸助を見送って、淳之介は自分の腕の中にいる私に視線を向けた。
「すまない、不快な思いをさせたね」
「いいえ、別に」
「幸助は見たとおり、ひどく素直な性格だ。怖がらないで、用があれば何事も頼めばいい」
「いいえ、私は幸助さんを怖いとは思いません。ただ……」
「ただ?」
「幸助さんはずいぶんと『獣』を怖がるんですね」
「ああ、それは……」
彼は急に苦虫をかみつぶしたような顔になって、押し黙った。
私は聞いてはいけないことを聞いてしまったような気がして、ごまかそうとあわてて彼の胸元を撫でまわす。
「あの、気にしないでください、思ったままのことを言っただけで、深い意味はないんです」
「いいや、夫婦になったんだから、聞いてもらうべきなんだろう。秘密はよくない」
「でも、淳之介様がお辛いなら……」
「ああ、ごめん、今すぐ話すのは確かに辛い。だから、もう少し待ってもらいたい」
「はい、わかりました……でも、幸助さんは臆病ですね、私もお義父様にお会いした時はびっくりはしましたけれど、怖いなんて思わなかった」
「それは、君がまだ『獣』の詳しくを知らないからだよ」
彼の顔は苦虫を通り越して、熱く焼けた石でも咥えさせられたかのように苦しそうだった。
「それに……幸助が怖がっている『獣』は父ではない、僕だ」
後はただ無言が、布団の隙間から吹き込むように二人の間に満ちた。
◇
しばらくあって、淳之介は口を開いた。
「起きよう。朝餉が冷める」
きちんと衣服を整えて廊下に出れば、大根を煮る良い香りが肺腑にしみ込む。
淳之介は小鼻を動かすようにして、まるで香りの一片も逃さずに吸い込んでしまおうとしているみたいだった。
「ああ、今朝は大根の煮物か。サトさん、張り切ったな」
そんな淳之介の言動につられて、私も肺腑いっぱいに空気を吸い込む。
大根の煮える香気に混じって昆布だしの馥郁とした香りが鼻孔を満たす。口の中にじんわりと広がるのは出汁の中でとろけるほど柔らかくなるまでじっくりと煮込まれた大根の、少し土の苦みを隠し持ったゆったりとした甘み……しかし、口中には大根はおろか、出汁の一口さえ含んでいないのだから、胃の腑が反逆を起こしてグウと鳴った。
これを聞いた淳之介は、甘い微笑みを浮かべて私を見下ろす。
「やあ、我が細君は相当に食い意地が張っていると見える」
一夜肌を重ねた甘えというものだろうか、私はこのからかいに口をとがらせて不服の声をあげた。
「夜中にあれだけ運動すれば、それは、おなかも空きます」
「ふふっ、なんともかわいらしい言い訳だね」
淳之介は私の手を引いた。
「さあ、早く君の空腹を満たしに行こう。それにサトさんも、ずいぶんと君に会いたがっていたんだ、今朝はきっとごちそうだぞ」
その言葉通り、茶の間に入るといぶされたような色合いの卓の上に幾品もの田舎料理が並んでいた。
田舎料理とはいっても、緑と白が鮮やかな山菜の豆腐和えは料亭の一品でもあるかのように、深い藍色の器の中に小高く天盛にされている。浜から上げたばかりのものだろうか、爆ぜた皮からのぞく白身がいかにも新鮮な焼き魚は行儀よく長方皿に寝かされ、料理人の繊細さとセンスを感じさせた。
そして件の大根の煮物は特に大きな鉢に盛られ、我が物顔で卓の中央に陣取っている。
「すごい、おいしそう!」
義母はすでに食卓に向かってしゃんと座っていたのだが、私の声を聞いて顔をほころばせる。
「当たり前です。うちのサトは、この島一番の料理上手なんだから」
その『サトさん』なる人物は、ちょうど幸助と二人で里芋の煮転がしなどのった鉢を運んではいってきたところであった。これは田舎のおっかさんといった風情のふくよかな女性で、年のころは義母よりも少しばかり上に見える。
このサトが、私の顔を見て手に持った鉢を投げ出さんばかりにのけぞった。
「まあまあまあ!」
大げさに私の顔を眺めまわして、サトさんはほとほと感心したようにため息をつく。
「なんてかわいらしいお嬢さんでしょう、ぼっちゃん、長い間お待ちになった甲斐がありましたね」
私はこの言葉を額面通り、30を過ぎるまで独身であった淳之介に対する揶揄だと受け取ったのだが、どうやらそうではないらしい。淳之介は少し怒ったようにサトの顔をねめつけて、これを小声で叱った。
「余計なことは言うなよ」
もっともそのくらいの怖い顔は日常茶飯事で、サトにとってはかわいい坊ちゃんの癇癪程度でしかないのだろう、返事はひどく気安い。
「はいはい、わかりましたよ」
「サト、本当にわかってるんだろうな」
「わかってますって、サトが一度でも坊ちゃんの言いつけを破ったことがありますか?」
「結構ある」
「そりゃあ、子供のわがままみたいな言いつけは……まあ、そうですね」
カラカラと笑うサトに向かって、淳之介の声はもはや懇願に近かった。
「頼むよ、サト、僕は久子に余計な気を使わせたくないんだ」
「おやまあ、ずいぶんと大人なことを言うようになりましたね、よござんす、大人の約束ということで、サトは何も言いませんとも」
「本当に頼むよ」
ああ、この家には私に知らされない秘密がある――そう思った。
昨夜はあれほど優しく肌を擦り合わせてくれたというのに、夫はまだ、私に完全に心を許したわけではないのだ。そう思うと、布団の隙間から入り込む夜風に肌を撫でられたようなさみしさが募った。
それでも嫁としてこの家に来たばかりの身では、夫にこのさみしさを訴えることさえはばかられる。だから私は箸を取り上げ、大鉢の大根を一切れ取り分けた。
この大根が廊下に漂っていた匂いと寸分たがわぬうまさであったことが、唯一私の心を慰めてくれた。