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獣の腹を撫でる義母の指はあまりにも優しくて、もの言いたげであった。その横顔は少しうつむいて、目元は今にも泣きだしそうにうるんでいる。
それでも口元はうっすらと笑いを浮かべ、きっとあの時、義母は義父が人間であった頃の思い出をひとつづつ思い出して愛でていたのだろう。
「結婚なんて誰としても同じこと、辛いこともあれば楽しいこともあるのよ。ただ、辛さの質が違うだけのこと」
義母の声はただのつぶやきだったというのに、私の鼓膜に突き刺さるのではないかというほどはっきり聞こえた。
今の私は、この言葉を言わずにはいられなかった義母の気持ちが痛いほどにわかる。そしてこの時も、小娘ながらに私の『覚悟』を問われているのだと感じていた。
そんな請求に覚悟を求められても……と不安な気持ちで淳之介を見る。彼はいまだ唇を噛んでいたが、その横顔は悲しみに満ちて美しかった。
そう、夫となるこの男は美しい。
そのとき彼は、胸の内からこみ上げる言葉を飲み込もうとして視線を遠くに向けていた。私からは形のよい鼻が美しく盛り上がった線のはっきりとした横顔が見えるばかりであった。
その横顔を浮き上がらせるように、明り取りから差し込んだ光が白い。
小娘の感傷はやや不埒なもので、この美しい男に愛されるのなら少しくらいの不幸は耐えられるような気分になっていた。
だから、彼の名をそっと呼ぶ。
「淳之介様」
彼が驚いた顔をして振り向いたのは、私があまりに甘い声を出したからだろうか。自分でも予期せぬ欲情の蜜味をたっぷりと含んだ甘い甘い声に、私は赤面した。
「あの、これは……」
「久子」
彼の声も甘く濡れている。
「言いたいことがあるなら言ってくれ、包み隠さず、嘘なく言ってくれ。どんなことを言われてもかまわない、それだけの覚悟が僕にはある」
そういいながら彼は、私に向けて頼りなく両腕を伸ばした。私はその両手をしっかりと握りしめて、彼の顔をまっすぐに見る。
「大丈夫です。私はあなたのもとへ嫁いできた女……妻として、どうぞ末永くおそばにおいてくださいませ」
彼の唇がぶるぶるとわなないて、短い言葉を吐き出した。
「ありがとう」
義母はひどく機嫌よくなって、獣の腹をわしゃわしゃと強く掻き回してから立ち上がった。
「さあ、話はまとまったね、婚儀といこうか」
とはいっても正式な結納さえまだなのだ。何をするのかと、私の表情は不安に曇る。
義母はそんな私にあでやかな笑みを向け、いたずらっぽく首をすくめた。
「何も祝言をあげようっていうんじゃない。初夜だよ、初夜。おっと、順序が違うなんて言わせないよ、うちではもう十分にあんたのことを待った、そのせいで淳之介に残された時間はあまり長くはない」
「40になる前に子を、ですか」
「お、いいねえ、甘っちょろいだけのお嬢さんかと思ってたけど、どうしてなかなか。覚悟を決めたいい顔してるじゃないか」
義母は自分の息子に顔を向けて、ひどくまじめな表情になった。
「あんた、こんないい子、大事にしなかったらバチがあたるからね」
「ああ、わかっている」
それから彼女は、私の方を向いて深々と頭を下げた。艶っぽい彼女からはとても考えられないほど当たり前の母親らしいしぐさであった。
「この子を、よろしく頼みます」
それを後押しするかのように獣が唸り声をあげた。
こうして私は、白鬼家の『嫁』となったのである。




